机上の空想 -on the armchair-

エロゲを中心に(広義の)ビジュアルノベルに関するレビューやエッセイを主な活動にしてるつもりのブログです。6月24日より旧ドメインから正式移行しました。

演出論

ビジュアルノベルの画面に映るモノ

(初出:2012年12月 紙媒体)



ビジュアルノベルの画面が何を表しているかというのは、実はそれほど自明なことではない。
実写映画の画面ならカメラの記録した映像(あるいはそれを加工したもの)であろうし、一人称小説の文章は語り手の主観、三人称小説であればいわゆる「神の視点」からの情景描写、アニメはいわば「神のカメラ」を通した映像を描いたものだと考えればよさそうである(いずれも「基本的には」という注がつきはするが)。

しかし、書割の背景の手前にキャラクターの立ち絵が並ぶ光景が主人公の視点から映される……という典型的なビジュアルノベルの画面は、神の視点のように自由に光景を描けるものではないし、主人公が意識していないだろうものの存在をプレイヤーが認識することが出来るという点で主観とはいいがたい。かといってカメラと考えるには逆に汎用の立ち絵や背景といった素材があまりに抽象的である。
「主人公視点の位置に固定された神視点の記述」くらいが適当だろうか……と有り体に表現してしまえば、いかにも中途半端で窮屈な印象であることは否めない。

そのような問題を意識してか否か、そういった中途半端な典型的画面構成から逸脱しようとしている試みは少なからず存在する。

その方針の一つは、主人公目線からの解放――つまり三人称的画面を構築することだ。
『ef』をはじめとしたminori作品のように記録としての「神のカメラ」を意識させて映画的表現を自称するもの、ライアーソフトの『赫炎のインガノック』など逆に画面の抽象性を高めることで三人称小説的表現を実現しているもの、はたまた典型的な画面構成を保ちつつ『アルテミスブルー』のように非没個性的な主人公を導入し画面に登場させることで人形劇や舞台劇のような様相を見せているものなど、このような作品にもさまざまな形が存在するが、いずれにしても共通するのは「主人公が画面上に存在する」ということである。
主人公が画面に存在することで、画面が主人公の目線でもなければ主観でもないと明示されるのだ。

そうなればもう一つの方針は、一人称的画面ということになるのであろう。
それは傍目には旧来のビジュアルノベルにおける主人公視点となんら変わりないものであるが、それよりも画面の意味がより明確になったものだ。
一人称としての意味を明確にしようとすれば、主観そのものを描写するか主人公視点のカメラを再現するか、二つの立場が考えられるが、前者を実現するのが(特にエンターテインメントと両立しようと思えば)困難なことである一方、後者の方向に関して言えば実はそのような例は珍しいものではない。魅力的なキャラクターを画面上に再現する――つまり「キャラクターたちのリアル」を構築しようとする美少女ゲームにおける試みは、画面がカメラという記録装置の役割を演じることを可能とするからだ。
立ち絵自体を動かす試みは『ウィッチズガーデン』のE-moteなどといった近年の例を挙げずとも従来から行なわれてきたことだし、画面に奥行きを与えることで書割ではなく立ち絵の住まう空間として背景を扱っている『恋色空模様』のすたじお緑茶のような例も数ある。
そういう意味で、一人称的画面というのは実質的にほとんどのビジュアルノベルで指向されており、その洗練は――たとえ制作者によって意識はされていない「結果的」のような形であるにしても――数多くの作品の手によって着実に進んでいるのだ。
また、「画面内のリアル」だけでなく「画面自身のリアル」を追求している例も多くはないものの存在し、『初恋サクラメント』などPurpleSoftwareの作品では、カメラが発話者の方を向く、背の低いキャラを向いたときに背の高いキャラが画面から見切れるなど、カメラの方向や視界の限界に注意することにより画面を「主人公視点」として正確なものにしようとする試みがなされている。さらに面白い例としては『trade▼off』(同人ゲーム)のように、カメラの方向をプレイヤーが操作することによってフラグ管理が行なわれる(たとえば着替えをしているヒロインの方を見てしまうと好感度が下がる、など)というものも存在する(どちらかといえばアドベンチャーゲームとしての性格が強調される例ではあるが)。



これらの試みが追求されていけば、「ビジュアルノベルの画面が何を表しているか」あるいは「ビジュアルノベルの画面が何を表していくことになるのか」というものはある程度明確になるだろう。三人称的画面であればかなり自由に、神のカメラでも抽象的な記号の集まりにもなることもある一方、一人称的画面であればそれは自ずと主人公視点のカメラそのものになっていくことになる。画面によって主観を表現することの困難さにより、結果的にではあるが、一人称を選択することが表現に制限をもたらす形だ。

そこでさらに考える必要があるのは、実際には――ここまではグラフィックという面でしか考えてこなかったが――画面上にはテキストが含まれるということである。
一人称であろうと三人称であろうと、テキストは本質的に「画面内のリアル」ではありえない(視界の中にテロップやメッセージウインドウが見えている人間は存在するだろうか?)。したがって、特に一人称的画面を採用したとき、テキストと「画面内のリアル」は食い違いを見せることとなる。テキストを含む限り、ビジュアルノベルの画面は「画面内のリアル」を達成しえないのだ。実際三人称的画面として紹介した『ef』も『アルテミスブルー』も、テキストには一人称を採用したことで、画面全体での人称は一貫していない。

そのことをどう捉えるかは、考え方次第である。
たとえば先に挙げた『赫炎のインガノック』のように、「画面内のリアル」とは逆行して画面の記号化を進めながら三人称テキストを導入すれば、この問題は回避される。
また、「画面内のリアル」を阻害するとしてテキストを排除するのも一つだ。ボイス再生時にメッセージウインドウを消す機能を持つ作品はよくあるし、『ウィッチズガーデン』の公式ブログではおすすめ設定としてメッセージウインドウを画面外に出す方法が紹介されている。このような作品は最終的に、恐らくはビジュアルノベルとは違う形のもの……簡単に連想されるものとしてはアニメに近いものとなっていくだろう。

あるいはいっそのこと、その食い違いをもって、そして「主人公視点の位置に固定された神のカメラ」という中途半端さをもって、それがビジュアルノベルらしさなのだと開き直ってもいいかもしれない。
たとえば、漫画に対して「このページ全体は一枚の絵として何を示しているのか」などと問うことは有意味でない。漫画の一ページは、コマ割りや吹き出し――画面の抽象的な分割の技術――という漫画独自の文法に従って読み進めることで初めて意味を成すものだからだ。ビジュアルノベルとしても『Quartett!』などLittleWitchの作品では実質的に漫画と同じ画面構成が実現しており、ほかの何を示すでもない「『Quartett!』という作品の画面」が成立している。
それらと同様に、どっちつかずなビジュアルノベルの画面の混然さをこそ文法として昇華して、そこに立脚した独自の――たとえば立ち絵と背景と一人称テキスト、そして音という構成でしかできないような――演出を目指すことを肯定するような立場があってもいい。たとえば『WHITE ALBUM 2』をはじめとした丸戸史明の作品では、典型的なビジュアルノベルの画面構成を保ちつつ、テキストにない情報を積極的にほかの表現に託しその逆も行なうといった演出がなされており、その傾向を強く感じることができるだろう。



いずれにしても、ビジュアルノベルの画面は依然として洗練の余地のある要素だ。そういう意味では、ビジュアルノベルは未だ始まっていないとすら言えるかもしれない。ならば、それらの洗練の先に――ビジュアルノベルが始まりを迎えた未来には、想像もつかない表現があるのではないかという希望もあるはずだ。そう、ビジュアルノベルはまだまだ、終わったジャンルなどではない。






『甘えむっ♪』レビュー(?)のとこでも少し触れているのですが、冬コミで頒布する冊子に載せてもらうつもりで書いた原稿の不掲載を決めたので、その後〆切ギリギリ(アウト)のところを割と突貫で書いたのがこの文章です。結びのやっつけ感。そしていま掲載するには旬を過ぎた感。

そんなわけで新しく何か考える暇もなく、画面演出について考えたことを、切り口を変えて整理という感じに。
特に(ユリイスの論として)新しいことが言えない分、とりあえず「ちゃんと適切な例を挙げながら述べてみよう」という心づもりで書いてみましたが、果たしてそれが出来ているかは……。



あと、完全にチラ裏ですが。
本当は丸戸の名前は挙げたくなかったんだけど、どうしてもあの部分にふさわしい作家が彼しか思い浮かばなかった。苦渋の決断。
いや、「エロゲならでは」を考えていくとこの上なく素晴らしいライターのはずですし、事実そういう評価を受けてる人なんですが。なんつーか、なんつーかなあ。彼ではダメなんだ、少なくとも、自分にとっては。

E-mote雑感 ~動く立ち絵演出について~

ビジュアルノベルであるということ」で名指しまでしてしまっているので、まあ一度は感想を述べておかないと嘘だよなあ……ということで、ういんどみる新作『ウィッチズガーデン』の体験版をやってみての感想を。

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まあ大よそはプレイした当時Twitterで述べた以下のポストに集約されているのですが……









もうちょっと詳しく述べてみたいと思います。
(動き方がどうこう、という動きの良し悪しについては語りません)
(後日「立ち絵「しか」動かない」の段を少し書き替えました)
(さらに追記をひっつけました)
(さらにE-mote以外の技術についての補足をひっつけました)
(んでもってE-moteの説明HPが公開されてたので追記しました)
続きを読む

ジャイアニズムの話

どうも、初めて広告記事が登場した気がした後の更新です。
いままでも一カ月以上放置してたことあるはずなんですがどうして今回初めて出てきたんでしょうか、少々謎です。
広告が出てくるのは承知の上で更新頻度を落とそうとしてたのですが、広告の内容がちょっとアレだったのでちょっとどうにかしたいな……(カテゴリをアダルトにしてるからしょうがないのだけれど)。


さて先日、「ジャイアニズム」(vol4)という雑誌に50Pにも及ぶスチパン特集が載るということでホイホイと購入してきました。二冊。
「これでいつものTGと同じ値段かよ倍してもいいだろ」と思う程度に豪華な内容で(複数買いの理由)、信者的にそれはもう素晴らしい本だったわけですが、特集の一つである「桜井光×鋼屋ジン対談」に一エロゲーマーとしてナカナカ興味深い件があったので少々そのお話を。
(以下引用はいずれも「ジャイアニズム vol4」の「桜井光×鋼屋ジン対談」からです)
(そして敬称略)



当該部分はP125からP126、

これは『腐り姫』、『Forest』の頃からそうだったのですけど、立ち絵に合わせた背景を作るということをやめてしまって、大きい背景と小さい背景を組み合わせる演出を使いました。バストアップなりカットインなりというのは象徴的なものであって、あなたたちは世界を切り取った窓としてのゲーム画面を見ているわけではない……『インガノック』もそのやり方で作ってみました。


という桜井光の発言と、それを受けての

紙芝居であることを否定しようとして、プレーヤーとキャラクターの視界を一致させていこうとつきつめていくと、最終的にはアニメーションになってしまうんですよ。どこかの地点で、記号であることについて自覚的でなければならない。


という鋼屋ジンの発言です。



ここで引き合いに出されている例としてインガノックにおける画面構成というのを具体的に見てみると

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こんな感じ。(『赫炎のインガノック』第五章(体験版範囲)より)
都市下層であることを示す大背景、無限雑踏街であることを示す小背景、そして話者を示す立ち絵とバストアップ。主にモブキャラは左のような色彩の薄い立ち絵で、メインキャラは右のようなバストアップで表示されます。メインキャラ同士がしゃべるときにはバストアップが入れ替わって表示され、バストアップが画面上に同時に登場することは(確か)ありません。
またシリーズの後続作では、モノローグ時にテキストウインドウに背景としてキャラの表情が表示されたり。

最近の作品は演出に凝ったものが増えてきて、立ち絵がグリグリと動いて画面によって場面が再現されるような、紙芝居から人形劇とも呼べる進歩を遂げてきています(udkさんのブログ記事から言葉をお借りしました)。一方、この『インガノック』の画面は空間的な何かを再現してるわけではもちろんなくて、シナリオ上は場面と話者を示す程度の役割しか果たしていません。世界を映す窓ではなく、何かを間接的に示しているすぎないのです。だから全然画面は動かないし、色がない立ち絵などという普通の作品ではまずありえない存在がさも当然のように画面に息づいている。

このような画面構成はいまのゲーム業界にあって異質なものかもしれませんが、鋼屋の発言にあるように、人形劇というのを完璧に突き詰めようとすると、それはいずれアニメーションになってしまう。
けれどそんなことをしなくても、象徴的な意味しか持たない静かな画面を通して、この『インガノック』は生きる人々を描き出していた。「描こうとする対象を具体的に再現すること」なんていうことなんてしなくても、何かを描くことは充分にできるのです。

また僕が前回の「ビジュアルノベルであるということ」に書いたように、「描こうとする対象を具体的に再現すること」というのは、それは文章の目的ではないし、なそうとすれば文の存在は邪魔にしかならない。
そして、その再現自体を目的とすることには意味がない。文学やビジュアルノベルに限らず、何かを描き出す行為というのは、何かしら記号的な、象徴的なものを込めて行なわれることのはずだから。

息を吐くように再現することができるというのなら、いくらでも再現すればいい。実際、映画とはそういうものです。けれどビジュアルノベルというのは素材の寄せ集めであって、何かそのものではない。だから、再現をなそうとすればそれだけで相当のリソースを必要とするはずなのです。
その上で、その再現で何を成そうとするのか考えることは相当にきついことのはずです。そしてそれには、アニメに劣った何かにしかならないのではないかという懸念が常につきまといます。
それくらいなら、いっそ象徴的・記号的であることをつきつめていくべきなのではないか、ビジュアル「ノベル」としてはそれがふさわしい形なのではないだろうか。

いうなれば、キャラクターが生きているように「見える」のではなく、生きているように「思える」作品。それが、ビジュアルノベルの目指す姿の一つなのではないか。


……などと、記事の解説なのか持論の展開(しかもあまり整理されてない)なのかよく分からないことをやってしまいましたが、それだけこの対談で触れられた内容は、今の僕の関心と密接なところにあるものなのでした。



この後、桜井光はこのようにも述べています。

アニメーションを作りたいのではなくて、絵と音と文の融合を見せたい。その視点の誘導のさせ方と演出のやり方が大事なんです。



絵と音と文の融合を見せるということがどんなことなのか、そしてそれをどうやって見せるべきなのか……そんなことがこの対談で言及された、ということがとても嬉しかった。というのも、僕が件の文章を書いたときに”「描こうとする対象を具体的に再現すること」をしないこと”として念頭に置いていたのが、この『インガノック』をはじめとしたライアー作品たちにほかならなかったから。


そして僕の記憶に違いがなければ、『ロストクリスマス』(の体験版)はどちらかというと「紙芝居であることを否定しよう」としている演出であったような気がするのですが、鋼屋ジン自身がこういうことに言及している以上、そういうことではないのでしょう。いずれプレイして確かめてみたいところです(というかこの対談で激しく興味を持ちました)。





あと鋼屋が同部分で言及していた立ち絵について、戦闘演出と絡めて言おうとしていたことがあったんですが一記事としてまとまらない上に書く時間もなさそうなので今回はこれにて。

来月辺りユリイス名義カテで書かせてもらうかも? その場合二記事以降に渡る可能性があったり……。


(今回、慣れない書き方をしてしまったので、引用の方法など問題がありましたらコメントいただけると幸いです)

ビジュアルノベルであるということ

(初出:2012年8月 紙媒体)


1.ビジュアルノベルの画面が「動く」ということ

 動きのあるビジュアルノベルは持てはやされる。画面の動きの少ない作品が紙芝居などと揶揄される一方で、立ち絵がスチルが背景が……画面がめまぐるしく変化する作品はそれだけで高い評価を得るものだ。

 それらの「動き」にどんなものがあるかといえば、まず挙げられるのは立ち絵そのものの変形である。立ち絵の差分表示といった基本的なものから目パチ口パクという古くから行われてきた手法、最近でいえば『ウィッチズガーデン』でういんどみるが採用した「E-mote」まで、登場キャラクターを生き生きと描写するための工夫は、攻略キャラとの(擬似的な)コミュニケーションを目的に持つ美少女ゲーム、恋愛ゲームといった場で主に進化してきた。

 それをもっと拡張した、場面を描写するための工夫というものもあり、たとえば背景に対して立ち絵を動かすという演出は正にこの方向のもので、最近では高さや奥行きを導入したり、立ち絵の歩いているように動かしたり、といった工夫をしている例もよく見られるようになった(たとえば『恋色空模様』『猫撫ディストーション』)。また、『ef』などしばしば映画的と評される作品をリリースしてきたminoriは、カメラさえも細かに動かす対象として一つ一つの場面を多角的に表現しようとする先鋒であろう。また立ち絵の差分は、キャラクターそのものをだけでなく場面を描写するための存在であるとも言える。

 これらの工夫を組み合わせることによって「動き」という表現が実現されていくのだが、キャラを描写するにしても場面を描写するにしても、その「動き」という表現が目指そうとしているのは、グラフィックにおいて「描こうとする対象を具体的に再現すること」であると考えられる。キャラを、場面を、技術の可能な限り画面上に具現化することで、プレイヤーの心に臨場感を喚起させよう――というのがこれらの工夫の目的なのだ。

 しかし、そういった目的に最適な媒体が、ビジュアルノベルのほかに存在することに思い至らないだろうか。そう、それは映画――サブカルチャーの文脈に合わせるならアニメ、である。今しがたminori作品を「映画的」と表現したように、動きある場面や人物を画面上に再現するというのは、活動写真に端を発する映画と、そしてそれを絵画で構成するアニメという媒体が、ビジュアルノベルが生まれる何十年も以前から行なってきた表現なのである。

 ならば、ビジュアルノベルは映画になることを目指しているのだろうか。いやそんなことはない、映画とビジュアルノベルは根本的に違うのだ、という反論は出てくるだろう。なぜならばビジュアルノベルと映画には、テキストの有無という大きな差異があるからだ。ビジュアルノベルがノベルという名を冠しているのは、グラフィックという視覚情報とは別の抽象的な階層に――つまりメタ的に、画面上に文字を視認できるからにほかならない。そのテキストの存在とともに、二十年以上という映画ほどではないにしろ決して短くない歴史を歩んできたビジュアルノベルにとって、テキストという要素は欠かすことができないものとなっている。

 文字というのは、いわずもがな画面上に存在し、グラフィックとともに視認されるものである。だから当然、グラフィックの「動き」という表現をビジュアルノベルに取り入れていく上で、画面上における文字の存在を無視することなどできようはずもない。ならば当然、ビジュアルノベルの「動き」を考えることは遠からず、映画などではほとんど考える必要のない文字という表現についても改めて考えることにもなるはずなのだ。

 ビジュアルノベルにおいて「描こうとする対象を具体的に再現すること」を目指す「動き」が進化していく中、文字はどのように扱われることになるのか。そのことを考えるにはまず、「動き」と文字とにどのような違いがあるのかということについて考える必要があるだろう。



2.文字は時間を持たない

 「動き」と文字を認識するときに最も大きく違うと感じられるのは、恐らく、止まっているか動いているか――すなわち、時間の有無ではないだろうか。

 グラフィックにおいて「描こうとする対象を具体的に再現すること」というのは、とりもなおさず時間の進行をも画面上で再現することなのであり、それを果たすための表現が「動き」なのであった。言わずもがな「動き」にはそれ自体に連続した時間があり、その認識にかかる時間は「動き」自体が持つ時間に同期する。

 一方、文字は静止した表現である。文字で時間の進行を描写することというのは、文字自体に時間を持たせることではなく、文やフレーズの間に前後関係を持たせることだ。それを実現する方法が(時間を示すような)単語であるにしろ頁送りやクリックという操作であるにしろ、認識にかかる時間は読む側の読速度にしかよらないのであり、ましてやそれが描写された時間――たとえば「そして一万年後……」など――に同期することなど普通は起こらない(※1)。文字という表現は、文や語に分割されて連続した時間を持たない、いわば離散的な表現なのだ。

 離散的な表現である文字と連続的な表現とを同時に認識させようとしたとき、どのようなことが起こるか。それについてはまず、「動き」と同じく連続的な時間を持つ表現である音に関して分かりやすい例がある。

 キャラクターの台詞に対し、テキストだけ読んでボイスを全て聞きとらずにクリックして先に進めてしまった……ボイスのついたビジュアルノベルをプレイしたことがある者なら、多かれ少なかれそのような経験をしてはこなかっただろうか。音で描写された台詞を文字で同時に描写されたとき、結果として「(声色などといった情報が少ないはずの)テキストを無視する」よりも「(キャラの声と音を再現しているはずの)ボイスを飛ばす」という選択がなされがちなのは、音を認識するよりも速く文字を認識してしまうからにほかならない(※2)。この問題に対しては、台詞を可能な限り短くする(離散化する)ことで認識時間の差を小さくする、オート演出を行う、そもそも台詞に対して文字を表示しない……などという工夫が考えられるが、実際にそれを実践して成功させている例は多くはない。

 この認識時間のズレという問題は、「動き」でも起こるはずだ。そしてその時は恐らく、文字が無視されることになるだろう。ボイスという表現が文字そのもので直接描写されえるものに時間を付け加えたものであるのに対して、「動き」という表現に込められたものを文字で描写するには――特に「描こうとする対象を具体的に再現すること」を目指そうとするなら――あまりに多くの語と時間を必要とするからだ。そして更に「動き」に関しては、同じ画面上で静止している文字と動いているグラフィックの、その両方の内容を認識することが可能なのか、という問題も付きまとう。ビジュアルノベルのグラフィックを動かそうとするならば、ただ単にぬるぬる動かすというだけではダメで、文字に対して相応の配慮をする必要があるのだ。



3.文字が描写するもの

 文字への「配慮」をしようとすれば、困難を回避して「動き」と文字とを別々に認識させるか、その困難をどうにか解決して同時に認識させるか、選べる道は二つに一つである。

 前者を選んだとき、「動き」と文字は別々に見ることになるのだから、「動き」と文字は別々の意味を持っているはずだ。また、後者――「動き」と文字とを同時に認識させようという試み――を選んだとしても、「動き」と文字は別々の意味を持っていなければならない。たとえば「あるキャラクターの立ち絵が右から左へと移動する」という動きが具体的に表現されたとき、「右から左へ移動した」と同時に文字で描写することは無意味なのだ。片方だけを見れば「右から左へ移動した」という事実は分かるのに、そこでわざわざ両方を同時に認識するという困難(あるいは苦痛)をプレイヤーが選ぶことはないからである。これは先に挙げたボイスの例でも同じことが言えるだろう。

 同時に認識させるにしてもさせないにしても、「動き」と文字は違う意味を持つ……その事実を踏まえて、「描こうとする対象を具体的に再現すること」が進化していった未来を想像してみよう。グラフィックにおいて「描こうとする対象を具体的に再現すること」を目指すのが「動き」なのであった。だからその「動き」が進化していけば、グラフィックで描写されうること、つまり視覚的な情報は全て、グラフィックとして描写しつくされるに違いない。そのとき、文字は「動き」と違う意味を持つのだから、文字が視覚的な情報を描写することはなくなるはずだ。同じく音が進化していけば、同様に文字が聴覚的な情報を描写することはなくなってしまう。そうしてそのとき、「動き」や音は時間をも描写しているのだから、時系列なんかも描写されきっているだろう。するとどうだ、文字が描写できることがどれほど残っているというのか。少なくとも映画――先に「描こうとする対象を具体的に再現すること」に最適だと述べた媒体であれば、それ以上描写するべきことは残っていない(だから映画には文字がないのである)。あえて探すとしても、匂いや温度などの残りの五感、そして人物の思考や感情などといった、極めて主観的な領域にしか残されてはいないだろう。しかしそれらを文字で描写したとして、「描こうとする対象を具体的に再現すること」と呼べるかは甚だ疑問である。たとえ一人称であるにしても、五感や感情は言葉そのものではないからだ。

 ここまで来てしまうと、「描こうとする対象を具体的に再現すること」に対する文字の寄与がどうこうという以前に、そもそも文字という表現に「描こうとする対象を具体的に再現すること」など可能なのか、という疑問が湧いてくるだろう。そして恐らく、その答えはノーなのである。それは文字という表現が、具体的な再現とは逆の、描こうとする対象の抽象化にほかならないからだ。

 たとえば「右から左へ移動した」と文字で描写したとき、それは最初にいた位置を右、最後にいる位置を左と抽象化して、さらに最初と最後の間に起こったことを「移動した」という言葉で抽象化しているのだ。もし用いる言葉を増やしたところで――たとえ固有名詞や「具体的」な数字を並べ立てたとしても――それはより細かな形容であるに過ぎず、文字が描写しているものが物事を抽象化して形容したものであることに変わりはしない。そこには必ず「鑑賞する者が想起すること」に依存する曖昧さが存在するのだ。この曖昧さは、言葉や文字による表現……文学の本質であると言っていい。

 だから、文字という表現を残す限り、「描こうとする対象を具体的に再現すること」はそもそも実現しえないのだ。ビジュアルノベルは、ビジュアルノベルという形を保ったままでは「描こうとする対象を具体的に再現すること」には永遠にたどりつくことができないのである。



4.ビジュアルノベルであるということ

 娯楽という観点から言えば、画面が動くのは楽しい、キャラが動くのは可愛い……そういったことだけが厳然たる事実かつ第一の原理なのであって、ビジュアルノベルという形は二の次である。だから、たとえば現在はその多くがビジュアルノベルの形をとっている美少女ゲームも、これから「描こうとするキャラの具体的な再現」を究めていこうとするならば、どこかでビジュアルノベルという形を、文字の表現を捨てていけばいい。美少女ゲームの多くがビジュアルノベルであるのは、かつてはそれが、キャラクターの可愛さやそのキャラたちとの交流のシミュレートを描写するという点で最も優れていた方法だったからなのであって、より良い方法があればそちらに移っていけばいい……いや、移っていくべきなのだ。実際そういった流れはすでに存在するし、『ラブプラス』のヒットなどはその中で生まれたものであろう。

 しかしそのとき気付いていなければならないのは、そもそも「描こうとする対象の具体的な再現」というのが、少なくとも芸術や娯楽などといった文脈において、それ自体が何かしらの価値を持つものなのではないのだということだ。たとえば、「描こうとする対象を具体的に再現すること」を目指せば映画に近づかざるを得ないとはいうものの、それは決して映画が「描こうとする対象を具体的に再現すること」を目指しているということを示すわけではない。映画においてはその方法、つまり映像が「描こうとする対象」そのものになっているのだけなのであって、その映像に抽象的な何かしら――テーマや感動、あるいは単純な美、臨場感などといったもの――が込められていることによって、映像は映画という表現になるのだ。美少女ゲームにおいてキャラクターを動かすということにしても、キャラクターが動くことによって可愛くなったりコミュニケーションに臨場感が生まれるから価値があるのであって、その目的が達成されないのであればその「動き」には何の価値もありはしない。「描こうとする対象を具体的に再現すること」は、手段の一つなのだということを忘れてはならないのだ。

 そして我々は――ビジュアルノベルのファンは、ビジュアルノベルが文字という表現であること、ある種の文学性を持っていることの素晴らしさを知っている。ビジュアルノベルがテキストの存在とともに歩んだ二十年以上の歴史の中にあって、脚本の良い作品を褒め称えるに留まらず、シナリオライターの紡いだ文字をきのこ文体や丸戸節などと謳い、ビジュアルノベルの特長だと考える時代はとうの昔にやってきているのだ。だから、たかだか手段の一つにしか過ぎない「描こうとする対象の具体的な再現」ためだけに、ビジュアルノベルであることという文学性を放棄するわけにはいかないのである。

 「描こうとする対象を具体的に再現すること」をしないことは、決してグラフィックや音をないがしろにする行為ではない。たとえば漫画は、吹き出しや音喩などを使って絵と文字を同じ紙面上に並べるというまさしくグラフィックと文字とを離散的な配置をもって同時に認識させる方法であり、そして同時に、現在のオタク的表現、すなわち独特の「漫画的」というデフォルメ――ある意味での視覚情報の記号化、抽象化――の加わった作風を持つ作品たちの源流でもある。コマ割りという画面分割の方法、グラフィックでありながらも文字の性質を残した独特のオノマトペである音喩……それら漫画の技法は全て「描こうとする対象を具体的に再現すること」を目指さない態度でありながら、絵と文字とを並列させることに成功し、表現としても完成された形だ。それと同様の「描こうとする対象を具体的に再現すること」ではない形は、ビジュアルノベルにも希求することができるはずであるし、希求していくべきなのだ 。

 そのような形ではなんの動きもない「紙芝居」と変わりないではないか、という声もあるかもしれない。しかし逆に、その紙芝居で何の不都合があるというのだろうか。たとえば絵画的な美しさのあるグラフィックを目指すために、動かぬ「紙芝居」であることを選んだとして、そのことによって作品の価値が減じることなどあるだろうか。古きビジュアルノベルの名作たちが、「動き」のないことによって色あせて見えることがあるのだろうか。いや、決してあるまい。それらの作品たちは、手段として「動き」を選ばなかっただけなのだから。

 それでも「紙芝居」であることに耐えられないというのであれば、「描こうとする対象を具体的に再現すること」ではない「動き」の方法を模索していけばいい。音について先に「描こうとする対象を具体的に再現すること」であると述べたが、それはボイスや効果音・背景音に限った話であって、実のところBGMという存在を考えてみれば、音が「描こうとする対象を具体的に再現すること」の枠に決して留まらない抽象的な描写が可能な表現であることが容易に理解できるだろう。ならばきっと「描こうとする対象を具体的に再現すること」でない「動き」も、同様に考えることができるはずだ。ただしそれは、描こうとする対象を再現「できなかった」ようなもの――「描こうとする対象を具体的に再現すること」のなりそこないであってはならない。「動き」が「描こうとする対象を具体的に再現すること」でないことによって何かしらの意味を表現できうるような、積極的な意味での抽象性が求められるのだ。その形を想像することは困難であるかもしれない。しかしその形を創造するということは、ビジュアルノベル独自の演出というものを考えていくということにほかならないのだ。

 もしその創造が実現され、演出の一つ一つに抽象的な何かが託されたならば。そのときビジュアルノベルは、一文字ずつに意図が込められた文学のように、間の一瞬ずつに意味を含ませた劇のように、とても繊細な――あらゆる意味で芸術と呼ばれるにふさわしいものとなるに違いない。




※1 ビジュアルノベルにおいては「テキスト表示速度」というものが存在するが、これは読速度を調整するものでしかなく、これ自体が実際的な時間を再現していることは稀である。

※2 ①「1MBの文字数のシナリオのビジュアルノベルを実際にプレイするのにかかる時間は十時間前後」②「発話速度の平均は毎秒7~8モーラ(拍、普通のひらがな一文字分)程度」という仮定を置くと、文字の認識速度と音声自体が持つ速度には二倍かそれ以上程度の開きがあると概算できる。②は国立国語研究所「『日本語話し言葉コーパス』の概要と予備的分析結果」より。




(あとがき)

書きはじめる直前まではノリノリだったけど、いざ書きはじめると結構難産な文章でした。
なんというか、使おうとする言葉の意味合いが読者の方々のイメージとズレてるような気がしてならないけど、しかし一々説明するのも奇妙なんだよなあ、と。

たとえば冒頭と終盤に「紙芝居」という表現が出てきますが、普通この表現ってゲーム性がないことについて使うもので、この文章で言おうとしている「画面の動きの少ない作品」を指すわけではないよなあ、とか。

主題である「ビジュアルノベル」という言葉も、現在ビジュアルノベルと呼ばれているものを指すだけでなく、特に後半においては単に「文字があって、絵と音もあるメディア」という、たとえば「ADVとノベルの違いは」とか「マルチエンドやゲーム性」とかいう議論とは質の違う――もういっそRPGやらACTも含めたって構わない概念になっていたり。しかしそれを総括する言葉を自分は知らない(ゲームと呼ぶと遊戯性の問題が出てくるし、電子書籍と呼ぶのも違うし……)ので、「ビジュアル」「ノベル」という言葉をそのまま使い続けてしまったという。なんか良い言葉はないですかね。ノベルウェア、あたりが妥当? いや、それもなんだかなあ。

そういうことがあるので混乱を招く文章になってる気もする上に、さらに自分はゲーム性を「物語への牽引力の一方法」程度にしか捉えてない節があるので、その辺を重視してる方にも申し訳ない文章になってるよなあ、という反省(しかし撤回する気もない)。

もっと精進していきたいところです。
プレイ本数が同人>>商業なこじらせ系エロゲーマー。
ご案内と注意
エロゲ感想の多くは雑感という形で雑記(+簡易感想)に紛れてます。

プレイ済リストや、下の検索欄からご参照ください。

批評空間のarmchairと同じ人です。

好んでいる作品の傾向を見ていただくだけなら、そちらの得点表を見ていただくのが速いかもしれません。

また、同人ゲームの感想をお探しの方は、批評空間でも同じような感想を述べてることがありますので特にご留意ください。


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