あまり更新できないだろうから広告バナーは諦めるか――などと言ってる間に広告表示がものすごくウザく……。
うーむ、どうにかせねばなあ。まさかの有料プラン? ほかの目的(独自ドメイン、画像容量増加)があるなら別ですけども、そこまでする気は起きないからなあ。

え、だったら更新すればいい? しかし台鼎、最近文章書くよりゲームやる方が楽しいという健全エロゲーマー()になっているので無理です!() 今月も新作3本予約してます!
――とか言ってる間にもうすぐ6月、6周年がやってくる悪寒。おおう、もう5周年から1年経ちおった。
記念更新、やるなら多分台鼎曲選です。あの曲とかあの曲とか入れてやるんだ……。




というわけでネタがないので即簡易感想です! 重い作品ばっかやったせいで長文化が著しい。

今回は7作、ひょっとするともう去年のプレイ本数超えてるんじゃ…?とか思いましたがさすがにそんなことはなかった。ただ今月も3本新作買う予定なので割といいペース。

[作品一覧]
巨乳熟女教師~不良にヤられたアラフォー母と学園のアイドル~
-姫辱- プリンセスダブル狩り
何処へ行くの、あの日
運命予報をお伝えします
水仙花
屠殺の園
ボツネタ通りのキミとボク



<商業>
○巨乳熟女教師~不良にヤられたアラフォー母と学園のアイドル~
HAIN劇場勝利編(そして敗北編)。…とまあその辺りのことは批評空間に先に投稿済(HAIN氏のTwitterでのポストを見て「いつもの」を早く見たかった)。
SIN's TALEというだけあり、今までぼんやりしていたシンの意味するところがかなり分かりやすくなったかなあと。支配者でかつ「信者」をもつ存在というのがピンと来なかったのですが、「流行」や「風潮」そのもの擬人化(「市場」は家族や学校になぞらえられてるものだと思うのでちょっと違うかな)、マジョリティの形作るリヴァイアサンのようなものと考えるとしっくり来ますね。『甘えむっ♪』の擬人化が個に対するものだったのとはちょっと毛色が違う。
次回作もSINの話だそうですが、系譜の位置的にどういう切り口で来るのかが予想付かなくて楽しみ。ハイファンタジーっぽいのも気になる。




○-姫辱- プリンセスダブル狩り
こっちは純然にエロ目的! 懐かしさを覚えるタイトルではありますが、まあある種思い出の作品ということでプレイしてみることに。(ブログ開設当時以上に金のなかったあの頃、体験版で何度お世話に……)。
村娘凌辱・エルフ異種姦の嗜好を自分に植え付けてくれた作品だけあり(今でもファンタジー系の凌辱作品はメインキャラよりモブとの方が燃えてしまう)、その辺は特に今でも充分鑑賞(意味深)に堪えうる素晴らしさでありました。出来の良し悪しはよく分かりませんが。メインキャラもまずまず。
しかし、別に面白いシナリオを求めるわけではないですが、それでもTrueのご都合感がなあ。バッドエンドくらいの自然さでどうにかならないものか。




○何処へ行くの、あの日
自分の周辺では「好きなライター:昔の呉」だとか「×呉 ○誤」などと色々揶揄されてる呉氏ですが、それではその「昔の呉」とはどんなものか、というのを体験。さすがに一作で特徴がつかめるほど読解力があるわけではないですが……。独特の憂鬱な空気は氏の特徴なのでしょうか、個人的には好み。ほか、思ったところについては基本的にネタバレなしで語れないので、該当部分は反転。
心情的には(当該世界で)絵麻が自殺した動機が述べられたところがピークで、あの結論に至った割に幸福な空気の結末であったことに結構拍子抜けしてしまいました。まあそのことによって「幸福な結末では、ヒロインと結ばれる」ことへのアンチテーゼとして無二の作品となっているのだと思いますが。
世界の設定については、余談で述べるような感触もあり基本的には好印象。ただ、部分的な過去改変が可能な点、特に「三木村の存在だけが抜け落ちて、その後三木村がいた世界から連続して日々が進んでいく」という描写だけは許容しかねる。カオスがどうとかは置いておくにしても、そうでなくとも「兄が死んだかどうか」なんてこと、仮に桐李に対して直接的に影響がなかったとしても、雪絵に甚大な影響を及ぼすわけのは疑いないわけで、そのことによって彼女らを取り巻く環境は激変するはずなんですよ。それなのに、その二つの世界が「三木村の存在」のみを置いて全く同じで、同じ日に同じ行動同じやりとりをするなんて考えにくいじゃないですか。その部分、しっかりしないとトゥルーの尊さも説得力なくなると思うんですよ。「あのエンドと同じだけど、しかし主人公と絵麻が結ばれているということだけが違う世界もありえるんじゃないか」と。多分その辺りのフォローする理屈はなかった気が……。
そもそも絵麻の前に立ちはだかった困難というのは、想像の必要のないほど身近でも普遍的でもないし、そうして想像する限りではさほど絶対的でもない気がするのですよね。というのも、主人公と絵麻が幸福には絶対に結ばれないことが、理屈として示されたわけでもなければ、「気の遠くなる回数のトライアンドエラーを繰り返した」ということは説明があっただけで、我々が見届けたのはそのほんの一部でしかないから。たとえば、主人公が絵麻以外の誰かに最初から深い愛情があって妹は眼中にないだとか、妹を守るという家族との約束がどうたらだとか、そうでなくても日常の些細な部分ででも、主人公の絵麻への想いがどれだけ強固なものであるかというのが示されていれば、それが結ばれない明確な理由となります。しかし、主人公側のそういう面が描かれているどころか、むしろ兄と妹が関係を持つという読者の身近にはほぼ存在しない(だろう)可能性が実際存在させてしまっているわけで。その上で「妹とは恋愛"だけ"はできない」と、創作では日常茶飯なことを否定して、さらに想像させる説得力というのが見当たらなかった。だから、いっぱい試したけどダメだったと書いてあるからダメだったんだろう、そういうものなんだろう、この兄妹はそういう特別な例だったんだろう、と納得するくらいしか自分にはなくてですね。これで例えば、絵麻にシーンが一切なかったりしたら、あるいはどこぞのループゲーよろしく延々同じ光景を見せられるような演出があったら、また違ったのかもしれないですが……。書いていて思いましたが、この部分、先程の設定に対する不満と密接につながってますね。
あとここからは完全に余談なのですが、この作品の設定、自分が見たSF作品の中では最も(量子力学の)多世界解釈っぽい気がします。多世界解釈ってよく分岐のイメージで捉えられがちですが、「波動関数(状態の重ね合わせ)が収束する」ことをどう説明するかという理論であることを考慮すれば、むしろ「無限の世界の重ね合わせの中から、たった一つの世界を残して削ぎ落とされていく」という方が正しいわけで、この作品はかなりその構造に近いなあという気がするわけです。まあ分かりやすく違う点もあるので、その方面で考察するのはナンセンスですが。ただ、ソレをテーマにするとき、この作品を参考にするのは充分アリでしょう。
あと、「死」というものが、身近で普遍で絶対的、というテーマとしてかなり使い勝手が良いものであるなということも思ったり。自殺のところでゾクっときたのも、そういうところなのかななどと。その分上手く書くのが難しいとは思いますが。




◎運命予報をお伝えします
宴スタッフが商業デビューして出したるは、「恋愛」を考えぬく作品でした。そういう風に表現すると『こいとれ』なんかが類似してるんじゃないかと想像してしまいますが、あちらともまた違う印象です。
なんというかこの『運命予報』は、己の中にある気持ちだけ見つめて、その在り方を自問し、ときに議論を戦わせながら考え抜いて――そうして「恋」の在るべき姿に至るという、いわば恋愛の哲学をしてるような感じです。一方『こいとれ』は、恋愛不全とも言うべきキャラクターたちが、今そこにない「恋愛」に対しあらゆる知識と手段を使って迫りつかみ取ってみる感じの、いわば自然科学っぽいアプローチなんじゃないかな、と(……などと6年前の記憶を掘り出しながら書いてみる。的外れだったらごめんなさい。当時の感想参考になんねえ……)。たとえば恋愛の教科書的な、と評するなら『こいとれ』の方がしっくりきます。
そんなわけで、「恋」に対して飛躍を許さない作品なわけでして、つまり「運命予報」だなんてメルヘンとは対極にある作風なのですが、しかし行きつくところは「我恋する、ゆえに恋あり」と言わんばかり、反吐の出るほどドシンプルなロマンチシズム。単純で強固な感情を頼りにするゆえの有無を言わせぬクライマックスには圧倒されるものがあります。哲学と呼ぶにはそこが粗ではあるのですが、しかしあらゆる方向へ蛇行して戻ってくる結論が非常にシンプルであるというのが、ある意味理屈らしくてしっくりもきます。
こんな作風の上、多分10時間程度なボリュームの少なさなども手伝って、宴時代以上に人を選ぶ作品に仕上がってるような印象です。個人的には割と好きなわけですが。ルートとしては夕紀か夏帆がいいかな。夕紀はテーマがお気に入り、夏帆はTrueルート的位置づけにあって(多分固定というわけではないですが)先述のクライマックスを見ることのできるルートです。あとまあ、いろいろ古傷をえぐられたりも……。




◎水仙花
近いうちに再プレイ再整理するのが賢明のような気もしますが、とりあえずファーストインプレッションを。以下、『未来にキスを』の話も軽く交えつつ。というのも、今までやった作品でもそれなりにそれっぽい描写はあったのですが、この『水仙花』で出てくる灯台守のシーンが決定的に『フロレアール』のオマージュだったんですよね(さらに元ネタがあるようでしたらm9してください)。そんな感じでKtFと本作に関してネタバレの伏字。まあ全く作品の感想にはなってない気がしますが。
「自分の内側を見つめればいい」というのは『未来にキスを』で語られたことで、『水仙花』――水仙の君、ナルシスはその実践の形のひとつであると言えるのかもしれません。ヒロインとは、外界からインスピレーションを得たものであるとはいえ、自分自身が投影されたものなのだと。
そもそも物語において、プレイヤーが主人公――目がなく絶対的な力を持つと言うだけのただのいち登場人物――と同調できるのならば、同じくヒロイン――絶対的な魅力を持ついち登場人物――も差はないわけで。感情移入といったプロセスさえ経れば、マルチエンドという分かりやすい形式を介さなくとも、登場人物全て……いや物語全てがプレイヤーの内部に入り込めます。また、「キャラクターが勝手に動きだす」ことによって、プレイヤーと作者の垣根も取り払われるわけで。この『水仙花』の枠組みの中、それらは混じり合います。けれどそれは同一化ではなく、やはり物語は未知、未来、「黒闇」であって……。
後のHAIN作品では分かたれている「物語」「作者」「プレイヤー」が、この作品では全くと言っていいほど混じり合ってる気がして、単に未分化未整理だったのだと最初は思ったのですが、それでこそ伝わるものがあり、そして筋が通っているように感じられると、意図的であるような気もしてきます。この作品は、「物語」と「人」とを描いたのだと。
しかし、なんか勢いで書いたけど意味不明である。いや、自分の中では意味は分かってるのですが。HAIN作品にならこういう感想も許されると思っている甘え。
あとはそうですね、御門の姿は見ていると胃が痛くなってきましたね。プレイヤーと作者の垣根はないと考えてはみるものの、御門はやはり、作者側というよりも、自分のようなプレイヤーにしか思えなくて。だからこそ、"ああいうのと係わると、ロクなことになりやしない"という言葉が突き刺さって。
だからこそ、その痛切な思いもが自分の胸に去来して。名演。




○屠殺の園
エロゲそのものの行き詰まり、それへの嘆き…とか、一面的な理解な気がしないでもないですが、最も強く感じたのはそれでした。ほかのHAIN作品をプレイしていると既知感あるテーマ(『甘えむっ』でも似たような言及はあります)なのですが、後発の作品はこの作品からの発展、ともいうべき? この作品がHAIN作品にあって独特なのは、エロゲ業界を「戦場」になぞらえていることでしょうか。歩兵としてのヒロイン、それを繰る者たちによる奪い合い、とかそういう類の。他作品では「家族」「学園」「教団」のような共同体として描かれているモノがそう描かれることによって、より嘆きだとか悲観だとかそういうものが強調され、突き詰められているように思えます。まあ、それぞれニュアンスが違ったりするのですが。この作品におけるそれは作者同士のものを指している感。
『甘えむっ』のときにも思ったのですが、ジャンルの先鋭化・奇形化・陳腐化というのはエロゲに限らず起こるものでしょうし、それが悲劇かどうかは視点次第じゃなかろうかと。そうでもしないと、これ見よがしに見せつけないと生きていけない……というのなら確かに悲劇でしょうが、それが多数派だとは思えないのですよね。

さて、これであとは『りとる†びっち』のみ。しかし評判を聞くと急いでやるもんでもないかなとか思ったり。その前に不良にハメられて~の再プレイですかね。narcissu 0。




<同人>
○ボツネタ通りのキミとボク
この作品をプレイしながらずっと考えていたのは、「ボツネタとはなんぞや」ということ。
設定だけがあるネタ、展開だけがあるネタ、などというのは分かりやすくボツネタです(個人的には展開は設定の表出であり、展開があることによって設定の存在が裏付けられていると思っているので後者はよく分からないですが)。しかしこの作品には、「設定も展開もあるどころかほぼ書き終えられるも完結していないネタ」というものが登場します。この存在によって、ボツネタと完成品の境というのはかなり曖昧になります。
たとえば、連載されている作品が未完だった場合。完結することのない『グインサーガ』や『クレヨンしんちゃん』は果たしてボツネタなのか。超水道さんの場合『明日はどこへいこうか』は次回作が想定されていて未完と呼べる状態なのですが(次回作以降で続きorリメイクが作られるようです)、彼らにとってこの作品はボツネタであるのか。
それらをボツネタと見なさなかった場合、発表されたかどうかというのが問題になるのでしょうか。同人ゲーム界隈でよくある、体験版のみで終わっている作品はボツネタではないのか。カフカの遺稿は発表されるまでボツネタだったのか。
あるいは作者の心持ちの問題? 世間的には完結している作品でも、作者がやり残してると思ったならボツネタ? 新装版でエピローグが書き添えられた作品はそれまでボツネタだった?
重箱の隅をつついてるような指摘になっている自覚はありますが、こういう部分というのは作品観と強く繋がっているところなんですよね。こういうツッコミをしてしまうという時点で、ライターのヒツヒトさんとは作品との向き合い方がかなり違うということなのでしょう。
それで「ボツネタとは」という話ですが、自分の価値観に照らし合わせた場合、そもそも自分は「ボツネタ」という言葉は使わぬなという結論に至りました。いままさに書こうとしている何かと、かつて書こうとした何かを自分は区別できないから。そして自分にとって、形にした何かと、形にならずとも心の中にある何か、それらも区別されないから。これらのうちの一つでもボツネタと呼んだなら、自分の手で作る/作ろうとする/作り上げたもの全てがボツネタになる。まあこの辺りは、創作を活発に行なってない人間だからこその視点なのでしょうが。
……oh,読み返すと全く作品の感想になってないYO





「未完の傑作より完結した駄作」という言説をよく目にしますが、個人的には首肯しかねるところ。