夏冬に載せてもらってる本に寄稿しようかと思って草稿を持ってって読み合わせをしたところサッパリわからんと言われてしまったので、そちらには寄稿せず端からこっちに投稿してみようと思います。

読み返してもあまり整理されてるようには思えない&駆け足にすぎる感のたくさんな文章ですが、HAINゲー好きたちへの刺激に少しでもなったらいいかなあ、と。




読む上での注意は……半角かっこ()はフリガナを表してます。まああまり気にせずに。

あ、もちろんのこと『甘えむっ♪』に関する重大なネタバレを含むのでこれからプレイする予定のある方はご注意を。読むなとはいいませんが。






 『甘えむっ♪~おかあさんのかぞくけいかく~』という作品がある。長々しい字面のタイトルのこの作品(以下、『甘えむ』と略そう)は、見た目には義母モノ抜きゲーであり、実際も(特に終盤までは)義母とのセックスシーンがほとんどを占める展開らしい展開のない作品ではある。

 しかしこの『甘えむ』において重要なのは、抜きゲーというものが、エロゲーあるいはエロゲ―業界の構造のメタファーになっているということだ。
 この作品に登場する二人のヒロインは、それぞれ「物語」と「作者」を擬人化したものである。すなわち、愛でられるヒロインであり物語たる義母【かなた】、物語の最大の理解者を自負する作者かつ義娘【えねみ】。この二人と、プレイヤーの化身であり彼女らの養い手として金銭を対価にヒロインと愛し合う主人公【あなた】との関係(家族という市場(セカイ)、と作中では述べられている)を、抜きゲーの構図になぞらえたのがこの『甘えむ』なのである。



 この三者関係を構成する三つの二者関係、すなわち「物語‐作者」「物語‐プレイヤー」「作者‐プレイヤー」のうち『甘えむ』で主に掘り下げられるのは、「物語‐作者」「物語‐プレイヤー」の二つだ。
(「作者‐プレイヤー」の関係については、前日談にあたる『りとる天使~カナタはみんなのヌキヌキえんじぇる~』で言及されることとなる)

 「物語‐作者」の関係は、【あなた】のいない二人だけの「楽園」を望もうとする【えねみ】を【かなた】が諭すというエピローグにあたるエピソードで表現され、このエピソードにおける【えねみ】から【かなた】に送られる

アタシという頚木さえ乗り越えて……今、一人の女(ヒロイン)として


という言葉によって、「物語」と「作者」が、そして「物語」と「プレイヤー」が対等な関係に結ばれることが示される。



 それでは、対等であることが明示された「物語」と「プレイヤー」の関係は一体どのようなものであるか。あるいは、あるべきなのか。この『甘えむ』でそれを表現する役割を果たしているのが、メタフィクションとゲームという二つの手法だ。それはつまり、この『甘えむ』という物語から画面の外にいる生身のプレイヤーへ言葉を投げかけつつ、プレイヤーからの入力を『甘えむ』が受け取ることによって、対等な対話を実現するという試みである。
 具体的には、この作品で用いられた手法は、物語序盤と終盤における「名前の入力」だ。ゲーム開始時にプレイヤーが名前を入力する――つまり『甘えむ』という作品に自らの名前を伝えることで、そしてプレイヤーがヒロインの名前を入力して呼び掛けることで、【かなた】が【あなた】ではなく生身のプレイヤー自身の名前を呼び返すというコミュニケーションが実現するのである。

 昨今の恋愛シミュレーション――ヒロインとのコミュニケーションを目的とする作品たち――と比較すればあまりにたどたどしく、稚拙にすぎるそれであるが、その巧拙よりも重要なのは、【かなた】が単なるヒロインではなく、「物語」そのものであることだ。つまり『甘えむ』で実現していることというのは、ヒロインとのコミュニケーションというよりも、むしろ「物語」とのインタラクションなのである。

 そうであれば、この『甘えむ』で描かれた「物語‐プレイヤー」の関係――あるいはそのあるべき姿――というのは、「物語」と「プレイヤー」が相互に作用するようなものである、ということができる。そうそれは、「プレイヤー」が「物語」の身体を貪る(本作のシナリオを手掛けたHAINの作品ではpreyer、捕食者としばしば揶揄される)のではなく、「物語」がただ「プレイヤー」に居心地の良い時間を与えるのではなく、プレイヤーが働きかけに物語が呼応し、その逆をもが実現するような関係だ。



 作中では、そのインタラクションについて

それは、この、物語(ゲーム)だからこそ許されたあなた(プレイヤー)との交流だった。


と述べている。
 この文は二つの読み方が可能で、一つは「この物語だからこそ」――つまりメタフィクションかつゲームであるこの『甘えむ』だからこそ許されたインタラクションであるという読み方、もう一つは「物語だからこそ」――つまりインタラクションは「物語」について開かれているという読み方である。
 前者の読み方をすればこの考察はこの『甘えむ』に限ったものとなるが、ここでは後者の読み方をして、その意味を考えてみたい。そうするのは、そうでなければこの『甘えむ』という作品が寓話として破綻してしまうからという身も蓋もない事情も理由の一つだが、メタフィクションやゲームも、少なくともこの『甘えむ』という文脈では「物語」の構成要素以上のものではないとみなせるからだ。

 「物語」につけられた「ゲーム」というふりがなから出発しよう。
 ゲームというものは、プレイヤーの(コントローラーなどからの)入力に対応して、ゲームの(画面や音声などの)出力がなされ、それに対してプレイヤーが再び入力し……という繰り返しで進行していく。そこには、ことさらには強調されてはないものの、確かにゲームと「プレイヤー」のインタラクションが存在している。そうであれば、少なくともこの『甘えむ』におけるメタフィクションという要素はそのインタラクションの存在を強調するための手段であったに過ぎない(とはいえ、その強調は鮮烈なものなのではあるが)。

 そして分析的に考えてみると、ゲームで行なわれるインタラクションというのはある意味で、ゲームという固定化しているパッケージに含まれたデータライブラリの参照にすぎない、ということがいえる。入力に対してそれに対応して用意されたデータを出力する……仕組みが少々複雑になっているだけで、ゲームプログラムの本質は実際そのようなものだ。たとえばゲームをプレイしていて、ゲームのデータがプレイヤーによって書き替えられるわけということは普通起こらない。つまりインタラクションとは言ってもそれは、ゲームのデータそのものがプレイヤーによって変形することを指すわけではないのである。
 しかしその解釈は、ゲームにおけるインタラクションに異を唱えるものではない。実を言えば、インタラクションが疑問なく存在しているように思える実在の人間との会話すらも、ウィトゲンシュタインが言語ゲームという概念を提唱したように、「中国語の部屋」と呼ばれる思考実験があるように、たとえばあいさつにはあいさつを返すという慣習的な――個人個人のライブラリに含まれるルールによって成立しているのであって、(少なくとも表層的には)返答のライブラリの参照を(多少の不確定さを含みながら)お互いに繰り返しているにすぎないと捉えることすら可能なのだ。

 だからむしろ、インタラクションをライブラリの参照の連続とみなすことというのは、物語にインタラクションの可能性を与えるものなのである。なぜならば、ライブラリの参照――それは、物語の書かれた本を読んだり、人の口から語られる物語を聞くこととなんら変わりないものであるからだ。そういう意味で、ゲームは物語の一つの複雑な形の一つであるといえよう。ならば……ゲームにインタラクションを認めることができるというのなら、同様に物語にもインタラクションを見出すことが出来るはずである。

 そうしたとき、「物語とのインタラクション」とはどのようなものを指すことになるだろうか。
 貧困な想像力を元に述べてみれば、それは……読者の働きかけによって物語はいかようにも姿を変えうるのだと、そうやって姿を変える物語がもたらすものによって読者は新しい価値観を生み出すことができるのだと、そしてそれはあたかも人間に接するような――一つの尊重されるべき人格に対するような態度で臨むことができるのだと、そういうことなのかもしれない。あるいはもっと、さらなる可能性が、物語との関わり合いの中に見出すことができるのかもしれない。

 いずれにしても、それが大きな希望であり僥倖であるだろうことには、きっと、違いない。






実をいうと『甘えむ』が好きな理由は、途中で少し触れただけの「物語‐作者」の部分だったりするのですが、あれは、まあとにかくやってみてよ、ってやつですよね。あれについて長々と語るのは野暮な感があるとすら思います。
ということで語るのはこちらの方にしました。

書きながら思ったのは、

・深沢豊について
彼の作品観と通じるものがある? 物語へのはたらきかけ、というテーマはこの人を連想せずにはいられない。
セカンドノベルに際して「だから僕も、もう「親離れ」しなければいけません。」と述べてるのも面白い。
・元長柾木について
【かなた】が単なるヒロインであったなら、KtFのジェネシスや新人類と同じようなニュアンスを伝える作品になったのだろうか? オートマトンというものをどう捉えるか、という意味では近しいところを触れている気もします。
『M』をやった感じ、これ以前ではヒロインはヒロインとしてのメタをやってるという感触がするので、そうなれば多分にKtFらへんと近いところを触ってることになるよなとか。

あたり。
まあ今後の作品でどう触れられていくか期待してみたり……とは言っても、なんかこれ以上触れることがないような気がしないでも。



(どうでもいい追記)
やっぱりオタクを救うのは機能主義なのだと思う。