(初出:2012年12月 紙媒体)



ビジュアルノベルの画面が何を表しているかというのは、実はそれほど自明なことではない。
実写映画の画面ならカメラの記録した映像(あるいはそれを加工したもの)であろうし、一人称小説の文章は語り手の主観、三人称小説であればいわゆる「神の視点」からの情景描写、アニメはいわば「神のカメラ」を通した映像を描いたものだと考えればよさそうである(いずれも「基本的には」という注がつきはするが)。

しかし、書割の背景の手前にキャラクターの立ち絵が並ぶ光景が主人公の視点から映される……という典型的なビジュアルノベルの画面は、神の視点のように自由に光景を描けるものではないし、主人公が意識していないだろうものの存在をプレイヤーが認識することが出来るという点で主観とはいいがたい。かといってカメラと考えるには逆に汎用の立ち絵や背景といった素材があまりに抽象的である。
「主人公視点の位置に固定された神視点の記述」くらいが適当だろうか……と有り体に表現してしまえば、いかにも中途半端で窮屈な印象であることは否めない。

そのような問題を意識してか否か、そういった中途半端な典型的画面構成から逸脱しようとしている試みは少なからず存在する。

その方針の一つは、主人公目線からの解放――つまり三人称的画面を構築することだ。
『ef』をはじめとしたminori作品のように記録としての「神のカメラ」を意識させて映画的表現を自称するもの、ライアーソフトの『赫炎のインガノック』など逆に画面の抽象性を高めることで三人称小説的表現を実現しているもの、はたまた典型的な画面構成を保ちつつ『アルテミスブルー』のように非没個性的な主人公を導入し画面に登場させることで人形劇や舞台劇のような様相を見せているものなど、このような作品にもさまざまな形が存在するが、いずれにしても共通するのは「主人公が画面上に存在する」ということである。
主人公が画面に存在することで、画面が主人公の目線でもなければ主観でもないと明示されるのだ。

そうなればもう一つの方針は、一人称的画面ということになるのであろう。
それは傍目には旧来のビジュアルノベルにおける主人公視点となんら変わりないものであるが、それよりも画面の意味がより明確になったものだ。
一人称としての意味を明確にしようとすれば、主観そのものを描写するか主人公視点のカメラを再現するか、二つの立場が考えられるが、前者を実現するのが(特にエンターテインメントと両立しようと思えば)困難なことである一方、後者の方向に関して言えば実はそのような例は珍しいものではない。魅力的なキャラクターを画面上に再現する――つまり「キャラクターたちのリアル」を構築しようとする美少女ゲームにおける試みは、画面がカメラという記録装置の役割を演じることを可能とするからだ。
立ち絵自体を動かす試みは『ウィッチズガーデン』のE-moteなどといった近年の例を挙げずとも従来から行なわれてきたことだし、画面に奥行きを与えることで書割ではなく立ち絵の住まう空間として背景を扱っている『恋色空模様』のすたじお緑茶のような例も数ある。
そういう意味で、一人称的画面というのは実質的にほとんどのビジュアルノベルで指向されており、その洗練は――たとえ制作者によって意識はされていない「結果的」のような形であるにしても――数多くの作品の手によって着実に進んでいるのだ。
また、「画面内のリアル」だけでなく「画面自身のリアル」を追求している例も多くはないものの存在し、『初恋サクラメント』などPurpleSoftwareの作品では、カメラが発話者の方を向く、背の低いキャラを向いたときに背の高いキャラが画面から見切れるなど、カメラの方向や視界の限界に注意することにより画面を「主人公視点」として正確なものにしようとする試みがなされている。さらに面白い例としては『trade▼off』(同人ゲーム)のように、カメラの方向をプレイヤーが操作することによってフラグ管理が行なわれる(たとえば着替えをしているヒロインの方を見てしまうと好感度が下がる、など)というものも存在する(どちらかといえばアドベンチャーゲームとしての性格が強調される例ではあるが)。



これらの試みが追求されていけば、「ビジュアルノベルの画面が何を表しているか」あるいは「ビジュアルノベルの画面が何を表していくことになるのか」というものはある程度明確になるだろう。三人称的画面であればかなり自由に、神のカメラでも抽象的な記号の集まりにもなることもある一方、一人称的画面であればそれは自ずと主人公視点のカメラそのものになっていくことになる。画面によって主観を表現することの困難さにより、結果的にではあるが、一人称を選択することが表現に制限をもたらす形だ。

そこでさらに考える必要があるのは、実際には――ここまではグラフィックという面でしか考えてこなかったが――画面上にはテキストが含まれるということである。
一人称であろうと三人称であろうと、テキストは本質的に「画面内のリアル」ではありえない(視界の中にテロップやメッセージウインドウが見えている人間は存在するだろうか?)。したがって、特に一人称的画面を採用したとき、テキストと「画面内のリアル」は食い違いを見せることとなる。テキストを含む限り、ビジュアルノベルの画面は「画面内のリアル」を達成しえないのだ。実際三人称的画面として紹介した『ef』も『アルテミスブルー』も、テキストには一人称を採用したことで、画面全体での人称は一貫していない。

そのことをどう捉えるかは、考え方次第である。
たとえば先に挙げた『赫炎のインガノック』のように、「画面内のリアル」とは逆行して画面の記号化を進めながら三人称テキストを導入すれば、この問題は回避される。
また、「画面内のリアル」を阻害するとしてテキストを排除するのも一つだ。ボイス再生時にメッセージウインドウを消す機能を持つ作品はよくあるし、『ウィッチズガーデン』の公式ブログではおすすめ設定としてメッセージウインドウを画面外に出す方法が紹介されている。このような作品は最終的に、恐らくはビジュアルノベルとは違う形のもの……簡単に連想されるものとしてはアニメに近いものとなっていくだろう。

あるいはいっそのこと、その食い違いをもって、そして「主人公視点の位置に固定された神のカメラ」という中途半端さをもって、それがビジュアルノベルらしさなのだと開き直ってもいいかもしれない。
たとえば、漫画に対して「このページ全体は一枚の絵として何を示しているのか」などと問うことは有意味でない。漫画の一ページは、コマ割りや吹き出し――画面の抽象的な分割の技術――という漫画独自の文法に従って読み進めることで初めて意味を成すものだからだ。ビジュアルノベルとしても『Quartett!』などLittleWitchの作品では実質的に漫画と同じ画面構成が実現しており、ほかの何を示すでもない「『Quartett!』という作品の画面」が成立している。
それらと同様に、どっちつかずなビジュアルノベルの画面の混然さをこそ文法として昇華して、そこに立脚した独自の――たとえば立ち絵と背景と一人称テキスト、そして音という構成でしかできないような――演出を目指すことを肯定するような立場があってもいい。たとえば『WHITE ALBUM 2』をはじめとした丸戸史明の作品では、典型的なビジュアルノベルの画面構成を保ちつつ、テキストにない情報を積極的にほかの表現に託しその逆も行なうといった演出がなされており、その傾向を強く感じることができるだろう。



いずれにしても、ビジュアルノベルの画面は依然として洗練の余地のある要素だ。そういう意味では、ビジュアルノベルは未だ始まっていないとすら言えるかもしれない。ならば、それらの洗練の先に――ビジュアルノベルが始まりを迎えた未来には、想像もつかない表現があるのではないかという希望もあるはずだ。そう、ビジュアルノベルはまだまだ、終わったジャンルなどではない。






『甘えむっ♪』レビュー(?)のとこでも少し触れているのですが、冬コミで頒布する冊子に載せてもらうつもりで書いた原稿の不掲載を決めたので、その後〆切ギリギリ(アウト)のところを割と突貫で書いたのがこの文章です。結びのやっつけ感。そしていま掲載するには旬を過ぎた感。

そんなわけで新しく何か考える暇もなく、画面演出について考えたことを、切り口を変えて整理という感じに。
特に(ユリイスの論として)新しいことが言えない分、とりあえず「ちゃんと適切な例を挙げながら述べてみよう」という心づもりで書いてみましたが、果たしてそれが出来ているかは……。



あと、完全にチラ裏ですが。
本当は丸戸の名前は挙げたくなかったんだけど、どうしてもあの部分にふさわしい作家が彼しか思い浮かばなかった。苦渋の決断。
いや、「エロゲならでは」を考えていくとこの上なく素晴らしいライターのはずですし、事実そういう評価を受けてる人なんですが。なんつーか、なんつーかなあ。彼ではダメなんだ、少なくとも、自分にとっては。