机上の空想 -on the armchair-

エロゲを中心に(広義の)ビジュアルノベルに関するレビューやエッセイを主な活動にしてるつもりのブログです。6月24日より旧ドメインから正式移行しました。

2012年04月

エイプリルフールは華麗にスルーして雑記

台鼎です。エイプリールフール企画を仕込もうと思った時期が僕にもありました……。

あいにく当日含め色々ありまして。特に日付が変わる前後12時間くらいは自宅にすらいなかったという次第でした。更新もその日の昼~夕くらいに多少確認できたくらいですかね。
無銘(徒然うた改)さんのとこなんかは、毎度面白いのですが、今年はシンプルさとインパクトが楽しかったですw 歌のチョイスが絶妙でした。
あまりエロゲ企業や同人サークルで印象に残ったところはなかったかな……?



年度替わりというと、当ブログ初期からリンクさせていただいてるれんとろわさんの誕生日のころ。サイトの方は最近更新されてないようなので、こちらにてひっそりと、おめでとうございます!の言葉を。
……という更新を1日ちょうどにするつもりだったのに(汗
これだけのために更新するのもなんだし、しかし更新しようとしていたネタがことごとく頓挫してしまって……!


そんなわけで、エイプリルフール作品を探したものの禁飼育のは体験版みたいだったしほかのところはお手軽なのが見つからず、という感じでようやく一作書くまでこぎつけた簡易感想。プロフィール更新した内容の通り、最近毒吐き気味なのをご了承ください。
ゲームも最近あまりできてないなあ……うーぬ。

[作品一覧]
Doubt!



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エロゲのエロとは何か

(初出:2011年12月 紙媒体)



0.序
 「エロゲにエロは必要か」という議論は、美少女ゲームユーザーの間でしばしばなされるもので、かくいう私も、二年ほど前にこの題目で執筆したことがある。

 しばしば議論がなされるということは、未だ結論が出ていないということでもある。単純な二元論でないのだから当然といえば当然なのではあるが、しかし、彼らの議論は往々にしてそれ以上の意味でまとまりを欠いているように思える。それはなぜかといえば、彼らの間でエロゲという存在の、あるいはエロゲにおける「エロ」の役割についての認識の齟齬があるまま「エロゲなのだからエロくないといけない」「エロが重視されてなくても面白いものはある」などと意見の主張が行われるからだ。

 エロゲには泣きゲー、抜きゲー、シナリオゲー、ギャグゲー、ノベルにアクションにシミュレーション……など、ジャンル分けしようと思えばいくらでもできるほどに多様な形がある。それらをエロゲという一つの概念に押しこめているのはただ一つ、エロの存在、つまりは性的表現の有無だけだ。そのことを考慮しないで、そのあり方について「エロゲのエロはこうあるべきだ」などとひとくくりに議論ができるほど、エロゲというものもエロというものも単純ではないのである。



1.エロゲの三つの側面 ~ポルノ、芸術、キャラクターコンテンツ
 エロゲにおける性的表現の実態を考察するにあたって、エロゲは少なくとも三つの側面からとらえられる必要があると私は考える。

 一つは、ポルノという側面だ。オタク文化に造詣のない人に「十八禁ゲーム」のイメージを尋ねたなら、恐らくは多くがこの側面に触れるであろう。いわゆる抜きゲーと呼ばれる作品群で主に強調されているものである。

 二つ目は、芸術としての側面である。芸術、などというと大げさで違和感があるかもしれないが、ここではたとえば「展開の面白さ」や「文章の面白さ」といった娯楽性を含めた言葉として使いたい。テレビドラマやハリウッド映画を芸術と呼ぶような感覚であると思ってほしい。つまりは、制作者の「表現物」であるという側面であり、たとえば文章やCG、音楽などの素材の良さが売りとなる作品などで強調されるべきものである。

 三つ目は、キャラクターコンテンツとしての側面である。アニメや漫画、ゲームといったオタク文化の大部分において、キャラクターを商品として売ることが産業として成立している。この場合、実は作品本体はキャラクターにとって不可欠なものではない。
 たとえば、ハローキティやミッキーマウスなどを思い出してもらえればいいのであるが、これらのキャラクターがどのようなお話のキャラクターなのか答えられる人はほとんどいない。そこまで極端にならずとも、作品がキャラクターの個性の補完程度の役割しか果たしてない事例もアニメ産業をはじめとしてよく見受けられるものである。二次創作という文化はこの面がなければ存在しえない。美少女ゲームでの例を挙げるなら、すーぱーそに子などがこの側面が特に強調された存在であろう。

 もちろんこれらの側面は明確に区別できるわけではなく、多くの場合複合的に作品に反映されている。



2.「作品価値」としてのエロ ~エロが作品内容に対してどう貢献するか
 このとらえ方は、そのままエロゲという「作品」における性的表現の役割についても適用することができる。すなわちエロゲの性的表現には、ポルノ的な性的表現、芸術性の性的表現、キャラクターコンテンツのための性的表現の三つがあり、これらを満たしていることがエロゲにおける性的表現の価値を決める要件となるのだ。

 ポルノであれば、扇情的な描写をして性的興奮を呼び起こすことができればいい。芸術であれば、性をテーマとした物語を構築したり、性行為によって恋愛の機微を表現したり、下ネタを使って笑いをとったり、あるいは裸体そのものを美しく絵に描いたり痴態の持つエロスを表現したりしてもいい。キャラクターコンテンツにおいては、性的表現によってキャラクターの個性を広げたり深めたりすることなどが役目となるだろう。

 こういった性的表現が持つ価値もまた、それぞれ明確に区別できるわけではない。
 そして、注意しなければいけないのは、性的表現が目指すのはこれらの要件の内の「どれか」なのであって、「全て」では決してないということである。どれか一つを満たしていれば、ほかの部分は捨て去っても構わないのだ。
 性をテーマとした文学作品がポルノとして優れていなかったところで非難される理由がどこにもないのと全く同じように、たとえばドラマ性を排してキャラクターコンテンツに徹した作品を、性的描写にストーリー上の必然性がなかったといって非難するのは筋違いなのである。
 そう、「エロゲにエロは必要か」という問題は、「エロゲはエロくあるべきか」ということとイコールではないのだ。ポルノはエロくあるべきだが、そのほかの場合においてはその限りではない。それよりはむしろ、「エロゲはエロゲである必要があるか」と表現した方がこの問題を正確につかめるだろう。

 作品の目指す方向性に合った要件を性的表現が満たしていない場合、作品の質は損なわれる。いかにポルノとして優秀であってもそれでストーリーが破綻しているようなら、シナリオゲーとしての評価は下がるし、リアリティやポルノ性を追求するのに終始してキャラクターの魅力を削いでしまうようなエロの使い方は、キャラクターコンテンツにおいては邪魔でしかない。
 ただし、だからと言ってそういった場合に性的表現が無価値となるわけではないことには注意しておきたい。制作者の意図しない部分で評価されている作品というのは決して少なくないし、そうでなくとも「制作者の目指す方向通り」であるかどうかなど消費者にとっては大した意味を持たない。ただ、総合して作品の完成度が低まって見えるという程度で、性的描写そのものはなんかしらの価値は持ちえるはずある。
※ただしそれも、あらゆる意味で価値がなかった場合を除いては、である。先に述べたどの要件を満たさない、つまり「抜けない、意味ない、可愛くない」というような三拍子が揃った性的描写に限っては、これは無価値であると言うことができる。もちろん、ここには主観的な要素が入ってくることを忘れてはならない(無意味を持って意味をなす、という芸術作品もありえなくはないのだから)。



3.「商品価値」としてのエロ ~広告材料としてのエロ、付加価値としてのエロ
 「エロゲにエロはいらない」と主張する消費者たちの注目しているものは、恐らくはこれらの邪魔な、あるいは無価値な性的表現なのであろう。逆に言うと、「エロゲにエロはいらない」派にとってのエロがいらないものでしかないということは、つまりは彼らの目に入る性的表現の多くが無価値なものでしかないということでもある。かくいう私も、現在のエロゲにおける性的表現が先の要件を満たせているかというと悩まなければならない程度には、そういった質の性的表現が跋扈しているように感じる。

 「無価値な性的表現が横行している」ことをとりあえず事実と認めるとして(この仮定の正当性についてはここでは議論しない)、なぜこのようなことが罷り通っているのかといえば、性的表現の存在そのもの、つまり「エロゲであること」に価値が生じることがあるから、である。「商品」としてエロゲを売り出すとき、エロというものは「作品価値」とはまた違う振る舞いを見せている。

 エロゲというのは、消費者にとっては「買って(数時間ほど)やってみなくては分からない」ものである。芸術性にしろ、ポルノ性にしろ、その良し悪しの判断はそもそも主観的なものにしかならない上に、特にエロゲという形態は「見れば分かるもの」ではないので、それを吟味するためには「試しに買ってみる」しか手段がない。
 したがって消費者がエロゲを購入するときに基準とするものは、中身そのものではなく、メーカーによる広報や口コミなどの事前情報となるのである(これはエロゲに限らず多くの「鑑賞する」商品についてもいえることであろう)。一方で、制作者側にとってエロゲは極端にいえば「売れれば勝ち」な「商品」でしかない。芸術性を目指す向きももちろんあるが、なによりもまず商業的に成功……と言わずとも、最低でも失敗を回避しなければ、制作者側にとって作品を作る意味がない。

 ここから何が起こるか。おおげさに言うと、「制作者は宣伝にさえ力を入れればよく、作品については激しく評判を落とさない程度に質を維持するだけで構わない」という構造が生まれるのである。作品そのものの質は端的に言って売り上げに直結するわけではないのだから、売上本位で考えれば真に力を入れるべきは宣伝、事前情報の提供である(視点を変えれば、作品の内容は「自分たちはこんな商品を作れますよ」という次回作以降に関しての宣伝ともいえるのであるが)。

 そしてその宣伝において、エロの存在は強力な材料だ。なぜならば、性的表現があるという事実だけで見た目には「ポルノ」という要件が満たされているからである。エロゲにはCGという素材があるので、ポルノとして不足ないように見える質の「絵」を最低限の枚数用意できれば、少なくとも売買の段では立派に商品として成立している。そこで作品がとんでもなく質の低いものだとしても、(口コミなどが存在しない)初動の売上にはあまり関係がないので、「質は高いが話題にもならず全く売れなかった作品」と比べれば商業的には成功である。
 極端な例を出せば、CGが異常に少なくエロシーンも絵が表示されないなどという、ポルノとしてはもちろんどの視点から見ても「地雷」というほかなかった例として『魔法少女アイ参』がある。これも発売前の段階では相当に期待されていた作品であり、事前情報と作品本体の乖離ぶりが見て取れる例であろう。

 また、特にキャラクターコンテンツとしてのエロゲに特徴的な現象として、「あるキャラクターのエロがあること」そのものに付加的な商品価値が生じる、というものがある。アニメキャラの様々な絵柄のグッズ――たとえばポスターや抱き枕など――が商品として価値を持つのと同じように、「あるキャラクターのエロを見ることのできるメディア」であることそのものが商品価値を持つのだ。ファンディスクで見られる「非攻略キャラのエロシーン追加」などが分かりやすい例だ。
 こういった場合、エロはグッズの一形態とみなしすことも出来る。例を挙げるなら、近年のminoriやKeyの「十八禁パートの後付け」という販売方法がまさにこの体現であろう。これらのメーカーの作品に対してポルノ性には期待するのははっきり言って見当違いだし、後付けということからしてシナリオ上の必然性も存在しない性的表現であるのは自明なのであるが、それでもエロがあると欲しくなってしまうのが消費者の性なのである。
 また、ここでのキャラクターという言葉を、声優や絵師、あるいは(全年齢の)作品などに置き換えてもいい。たとえば、二〇一一年現在においてもし「花○香菜がエロゲに参戦!」などという事態が発生しようものなら、彼女の性的表現に関する演技の実力がどうであれ、彼女がエロゲに出演したということそのものに話題性と商品価値が生じるはずである。そして同様に、これが岸田メルだったら、『Steins;Gate』だったらどうなるだろうか。

 すると問題なのは、これらの「商品価値としてのエロ」が、先に挙げた「作品価値としてのエロ」の要件を満たし得るかということである。
 理想的にはこれは全く別の問題なのであるが、実際には(その作品にそのようなものがあるかは別として)作品が目指しているものと性的描写を入れる理由が食い違っているのであるから、少なくとも作品の方向性に沿う形では満たさない場合が多くなることであろう。
 たとえばキャラゲーを目指しているにも関わらず、エロ=ポルノという短絡的な発想をもって、キャラ崩壊気味にヒロインに卑語を連発させるなどということになりかねない。ポルノとして勝負する気もない作品にこのような短絡的なエロの導入が行われたとき、それが作品にプラスに働きえるだろうか?
 そして、先に述べたような「売れれば勝ち」を突き詰めてしまえば、エロはとりあえず入れておけばよいものにしかならず、当然そのような場合には性的描写は作品価値の要件を全く満たさない無価値なものになり下がる。このような事態は作品という観点からすれば「商品価値の向上に対し作品価値が損なわれる」という悲劇にしかならない。



4.エロゲであるということのジレンマ ~「たかがエロゲ」を生み出すモノ
 エロゲには三つの側面があると述べたが、一般にエロゲなどというものはポルノとしか認識されない。実際、ポルノ性を完全に排したエロゲなど存在しえないであろう。芸術性とポルノ性――エロティカとポルノグラフィの境界、わいせつ性の判断の基準については、法律分野を初めとしてしばしば議論がなされ、いまだに立場によって見解が大きく分かれるところだ(児童ポルノ禁止法改案の議論が記憶に新しい)。

 そしてまた一般に、ポルノと認識されたものがポルノ以外のものとして受け入れられるには困難が伴う。特に近年はフェミニズムの観点から、性的表現は女性差別的なものだとして糾弾されることもしばしばだ。エロは、卑俗、アンダーグラウンドの域を出ることができないのである。なれば、たとえばエロゲ界隈で芸術性を評価されているような作品でも、外に持ち出してしまえば芸術性を持ちえない「ただのポルノ」としか扱われず、「たかがエロゲ」と一笑に付されることになる。性的表現が不可避な作品はこのことを前提としているかもしれないが、「商品価値としてのエロ」を後付けで用いたような作品の場合、その作品の本来の作品価値とは関係のない性的表現の存在によって、芸術性などの作品価値を評価される機会が奪われることとなる。また、法令によって作品に触れられる消費者(の年齢)が制限されるという問題も発生する。このような場合、「エロゲである」ということは作品としてはマイナスにしか働いていない。

 しかしだからといって、そういった作品が商品としてエロゲを脱却することにも困難が伴う。エロゲという商品の売り上げが、広報のされ方如何によって決まるという業界の構造があるからだ。「消費者がエロゲを購入するときに基準とするものは、中身そのものではなく、メーカーによる広報や口コミなどの事前情報」と先に述べたが、これはつまり、(作品価値という点で)良い作品が売れるというわけでは全くない、という意味でもある。特に「シナリオがいい」「キャラが(見た目以外の意味で)可愛い」などという判断は、制作者側から与えられる情報によっては判断できないわけで、どのような商品が「事前情報」のみによって売れることが可能かと言えば、「エロそう」「絵が綺麗」という事前情報時点でも分かりやすい材料があるもの、顕わな面に作品価値があるものに限られてしまうのである。

 そのような状況で「シナリオがいい」などの隠れた面に作品価値を求める消費者はどのようにしてエロゲを買うのか。なにしろ、(新作であれば一万円近い金を払って)買ってやってみなくてはならないのであるから、アニメなどと違って簡単に「とりあえず見てみる」というわけにはいかないので、当然のように腰が重くなる。
 そうすると、主には実際に作品をプレイした消費者たちの「~がよかった」という評価が購入時の大きな基準となるわけだ。そしてその評価というのは、実際に知人などから耳にするにしても、レビュー投稿サイトや掲示板など(でのいわゆる口コミ)で目にするにしても、その作品に触れた人が多くないと消費者まで届かない。匿名の評価は数が揃わないと信頼ができないし(この信頼性を捏造する、いわゆる工作というものも存在する)、実際にプレイした人の感想を聞くにはそれこそユーザー数がある程度大きくならない限りその機会を作れない。しかし、その評価をするユーザーもまた評価を主な購入基準にしているのだから……。
 結果、売れている作品ほどどんどんと売れていき、無名な作品はその中に埋もれていく。売れている作品はなんかしらの点で価値のある作品であるが、決して作品価値のある作品が売れるとは限らないのだ。

 また、芸術面を求める消費者にはいわゆる「クリエイター買い」をする層も存在するが、これも同様である。隠れた面を作るクリエイター、たとえばシナリオライターであれば、麻枝准や田中ロミオなど有名なライターならば評判が耳に入るかつ自らも作品に触れたことがある可能性も高くなり、彼らが執筆しているという事前情報が「面白くなるはず」という購入動機たりえる。しかし、そうでないさして有名でないライターともなるとそこまで意識している層は相当少なくなってしまうのである。

 このような状況で、隠れた面に作品価値がある作品が、商品として売れるにはどうすればいいか。
 それは、顕わな面での作品価値や商品価値を付与することで売上を確保することである。特に性的描写を入れる「だけ」なら、限りある人材素材からでもある程度手の届く範囲の工程だ。エロを入れればエロを求める一定の購買層が存在するのを、それをなくせばその分の層が消えてしまうことになるのだから、当然商業的には入れないわけにいかなくなる。しかしそれでも、限られたリソースの中で作品を作るにあたって、本来注力したいものでない作品価値としてのエロにどれだけ力を入れられるかというと、微妙なところだ。
 だからといって、安価に鑑賞できるアニメや漫画、ラノベなどと比して、高価なエロゲが顕わな作品価値――絵そのものやキャラの見た目の可愛さだけで勝負できるかといえば、これも微妙なところである。「宣伝においてエロの存在は強力な材料だ」と先に述べはしたが、実際は「エロがないと売れてくれない」と表現する方が正確なくらいのはずで、そうであれば、隠れた作品価値のある作品を生み出している多くのブランドにとって、商品価値となるエロの放棄は商業的成功の可能性を捨てることに等しいのである。こうして作品価値に徹しきれない粗悪な作品が氾濫し、その作品価値は「たかがエロゲ」レベルのものに留まり続けることになる。

 商品価値としてエロを入れなければ作品は作れず、かつ作品価値を評価される機会を得ることが出来ない。しかし、そのことによって作品価値は損なわれ、かつ芸術作品として広く評価される機会は奪われる。このジレンマが停滞を産み、「たかがエロゲ」という共通認識が誕生することとなるのである。
 このジレンマを解消する方法はただ一つ、エロがないと制作者が経営上やっていけないという状況を打破するしかないのであるが、具体的な方策は筆者には思いつかない。なぜなら、これは消費者と商品、鑑賞者と作品の関係性の問題であって、簡単な提案でどうこうできる問題ではないからだ。
 簡潔に言ってしまえば、芸術では食っていけない、それだけの話なのである。



5.エロゲにエロは必要か

 さて、本題に戻ろう。エロゲにエロは必要だろうか? あるいは、エロゲはエロゲである必要があるだろうか?
 この文での結論は、「制作者が商品を売り、作品を作っていくのには必要」である。エロはいらないという層がいくらいても、エロをなくしたところで商品として売れるようになるわけではないのだから。ポルノはもとより、そうでない作品にとっても、商品として売れるにはエロの存在が不可欠なのである。

 もちろん理想的にいえば、エロが必要かを決めるのは制作者次第のはずだ。しかし現実は、その作品に対する必要性に関わらず、エロを使って売っていくしかないのだ。売れない画家は、商品として売れる絵をたくさん描きながら自分の描きたい作品を少しずつ描いていくしかない。描きたい作品が売れる商品となる、そういうこともときにはあるだろうが、それは一つの恵まれた幸運でしかないだろう。そしてこの問題を真に解決しようとするなら、それはまさしく、芸術全て、あるいはあらゆる意味での創作の前に横たわる深淵を乗り越えようとすることに等しい。

 それを解決できない今、我々が心がけなければいけないことは、商品であることを作品の言い訳にしないことである。「たかがエロゲ」などと、制作者側も消費者側も口にしてはならない。ポルノならポルノの、芸術なら芸術の、キャラクターコンテンツならキャラクターコンテンツの矜持というものがあるはずだ。そしてその事実は、商品であってもそれは変らないものであるはずだ。そのことを忘れた方法でエロに甘んじ、作品の劣化を見過ごしていくのであれば、エロゲは、いつまでも「たかがエロゲ」に留まり続けることしかできないだろう。



※追記:
読み返すと「エロやりたくてエロを作ってる人」を軽視してるような文に見えますが、そういうわけではなく、むしろ「エロやりたいわけでもないのに職業的にエロを作ってる人」への懐疑というかそういう感じです。

もし「エロを入れなくても売れる」なんてことが現実になった場合、全年齢向け作品がどれくらい増えるのかなあと思ったりするわけですが、その辺は分かりませんね。
あるいは、逆に「エロ入れたところでエロゲでなんか生活できない」なんて世界でゲームを作る人がどれだけ残るのか、とか。
ついこの間の騒動のときも、ライターさん方の反応も大分冷めたものでしたし……。(ライター側の態度に)怒ってる方とか静観を決めていた方はともかくね。

こういうのめんどくさいから、同人っていいよな、などと。いや、こういったものを度外視できるものを同人に求めてると言った方が正しいか。
「作りたいから作る」「作らずにいられないから作る」的な。僕にとっての価値なんて、僕が楽しめるかどうかなんてどうでもいいから、そういう態度で作り続けてほしい。そうしたなら、僕はそこから勝手に拾い上げていきます。

『さくっとパンダ』紹介

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(初出:2011年4月 紙媒体)
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プレイ本数が同人>>商業なこじらせ系エロゲーマー。
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好んでいる作品の傾向を見ていただくだけなら、そちらの得点表を見ていただくのが速いかもしれません。

また、同人ゲームの感想をお探しの方は、批評空間でも同じような感想を述べてることがありますので特にご留意ください。


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