エロゲブログ記事の書き方の一つに、最近のブログ記事やTwitterのポストについて一言……みたいなのがありますね。感想中心の「机上の空想」ではあまりやらない系。

実は自分もちょっとやってみたくはあったのですが、たいてい二つ三つほど言葉が出てくるだけで記事書くほどでもないよなーとか思ってしまい、Twitterで放言するのが常でした。

しかし今回は、Twitterに連投するにはちょっと気持ち悪い感のある感想が湧き出てしまい、早目に投稿したい簡易感想があったこともあったので血迷って更新という運びにしたく。



ということで……

■お題:"考察の余地"について

ここ一年くらい、台鼎は「考察」という言葉に敏感です。
それはきっと、ちょうど一年ほど前にクリアした『WHITE ALBUM2』のせいであり、その直後にクリアした『はつゆきさくら』のせいであり、そしてその後触れた『甘えむっ♪』のせいであり……。

そんな先日、相互リンクさせてもらってますおくさんのブログnarcissusで、記事「「I/O設定解説ファンブック」買いました」を読んでいたところ、考察についての言及がありまして、そこでちょっと考えたことがあるので引用させてもらいます。

個人的には"難解"と言われる作品にも二通りあって、その難しさに個人が考察する(考察出来る)余地があるかどうかの二つに分かれると考えています。
『最果てのイマ』は前者の典型的な例であって、クリア後に千々に撒かれたパズルのピースを配列する楽しみがプレイヤーに与えられていた。
それに対して本作『I/O revision II』は後者。作中で与えられる情報が膨大で、その上分かり難く、また断片的であるので個人の力だけで考察を極めるのが困難。(これは僕自身の読解力の無さも関係ありますが。)



意識的に考察が必要となる難解な作品群に対して、"考察の余地"の有無を問うことで分類ができるというお話です。

そのことについてはなるほど、と思ったのですが、しかし台鼎が引っ掛かったのは、"作中で与えられる情報が膨大で、その上分かり難く、また断片的である"ことをもって「考察の余地がない」という結論になっていることについてです。分かりづらいことが考察の余地の有無に関わるのだろうか……?と。

ちょっと考えて、おそらく「考察の余地」という言葉からイメージするものが違うのだろう(おくさんは「考察するのに取り付く島」があるかないかというイメージで使ってらっしゃる、多分)ということに気づくのですが、それでは台鼎がどんなイメージをもってなるほどと思い、かつ引っ掛かったのかといえば、それは「考察するのに残された部分」があるかないか、というものです。



難解なゲームに限らず、考察という作業は作品を鑑賞する上で多かれ少なかれ行なわれるもので(「あー、あれはここの伏線だったんだな」程度の感想でも、考察といえば考察)、その形は、鑑賞する読み手によって、そして作品そのものによって様々です。

自分は、そういった考察たちには二つの方向があると考えています。すなわち、作品の「内へ向いたモノ」と「外へ向いたモノ」。
「内へ向いたモノ」というのは、たとえば推理小説のトリックを考えるような場合。明らかに想定されている正解、あるいはそうでなくては論理的に破綻してしまうような「事実」を追究するような考察です。「考察」という言葉を用いる場合、それらの事実は作品内で明示されていませんが、しかし作品という枠組の中に用意されているモノです。それを明らかにしようとする態度は、まるで、額縁の中の空白にピースを埋めていくようなものです。

対して「外へ向いたモノ」というのは、たとえば「この作品に込められたメッセージは何だろうか」というようなことを考える場合、あるいは登場人物の言動の是非について考える場合。読み手が受け取ったモノや感じたことそのものを深めるような考察、あるいは読み手の価値観や知識と照らし合わせるような考察です。それらはもちろん作品の枠組みの中にあるものではなく、その追究というのは、作品を幹あるいは根にして枝葉を伸ばしていくような作業です。



その発想と「考察の余地」を対応させると、前者の考察に偏る作品は「作品の枠組」という限界があるという意味で考察の余地がなく、後者の考察に偏る作品はその考察に無限の形が考えられるという意味で考察の余地がある、ということになると思われます。

台鼎は残念ながら『イマ』も『I/O』もプレイしていませんが、『イマ』における"ピースを配列する"という行為はまさしく内へ向いた考察なのではないだろうか、と想像します。また、『I/O』のように"与えられる情報が膨大"であるということは、それははっきりとした結論に至らない示唆に富むということであり、つまり作品そのものには意図されていない外へ向いた考察が可能であるということなのだと思います。
だから、もし自分が「考察の余地」という言葉を使うならば、恐らくは真逆のことをいうのではないかなと思ったり。いや、やはりプレイしてないので何とも言えないのですが。

……というのが、おくさんの文章を読んで今回考えたことなのでした。
ただ、『イマ』に関しては、"どうか、優しく配列されますように――"という文言的に、いかようにも配列することが出来るという意味で「考察の余地」が時間方向に広がってるのかもしれませんね(つべこべ言わずにさっさとプレイする方が良い)。



なお、自分が「内に向いた考察」に偏った作品の典型例として挙げたいのが『WHITE ALBUM 2』に代表する丸戸作品であったりします(いうてほかには『世界で一番NGな恋』しかやっとらんのですが)。
氏の作品というのは、あらゆる場面において決して説明的でないにも関わらず、しかし情報(テキストとは限りません)を総合することでどういう理由で何が起こったのかが、ほぼ全て分かるような造りになっています。そして、そこに自由な想像をする余地はないです。断言するのは、『WHITE ALBUM 2』において自分が想像――ある意味での考察をした内容、それらほとんどを作中で否定されたという体験があるから。

――とこれ以上語ると完全に脱線するので中止しますが、ここまで書いてやはりこういう記事を書くのは苦手なのだと確認できましたww
引用元の文章自体を追究するような閉じた書き方にすることができないので……うん……やっぱ内に向いた考察苦手や……。
そう、この文章がまさしく「外に向いたモノ」なのですよね。勝手に色々考えちゃって、元のテクストをそっちのけにしてしまう気質。過去のレビュー見てもそんなんばっかりだと思います多分。




それでは以下は簡易感想。今回の話を上手くからませられればよかったのですが、残念ながら先に感想の方を書いてしまっていたのでした……。

[作品一覧]
ファタモルガーナの館
なのかまち



<同人>
○ファタモルガーナの館
一見、ザ・雰囲気ゲーで芸術的な作品という印象ですが、実はそういうわけではなく、純然にエンターテインメント的な作品だったと感じました。もちろんシナリオは重々しいものですが、それだけでなく笑いありキャラ萌えあり、的な。またそのシナリオも、伏線や見せ方に工夫はあるけど、やってることも構造も素直で分かりやすい。
重さと軽さのバランスは、自分がプレイした中だと『装甲悪鬼村正』のそれに近かったかな? あっちの方が振れ幅は大きいですが。エロゲらしくない厳かな見た目に反して、シナリオゲー好き・大作好きのエロゲーマーにこそ広く好まれそうな作品だったと思います。グラフィックも後半になるにつれて、風格を残しつつも癖も割とやわらいできます。
シナリオのほかにも、システム(インターフェイスとしては何の変哲もない、典型的ビジュアルノベルのそれ)と密接につながっている演出をはじめ、見たとおり迫力のグラフィックに音楽と、総合力に長けた作品でした。

……というのがネタバレをしないようにした感想。以下、あんまり好きになれなかった"経緯"。

上に書いた"ザ・雰囲気ゲーで芸術的な作品"という空気、実のところ4章くらいまでは割とその通りで、その時代ごとの悲劇が奇をてらわずに描かれていました。
そんな中、Bestea――バスク語で"other"を意味する単語(Google翻訳で調べただけですが)が登場し、オレンジが獲れるということはやはりここはスペイン・フランスの境界周辺か(戦争はスペイン継承戦争?)などと思いを巡らせつつ、鎖国云々が本筋に絡んできたところでポーリーンの衣服や貿易商の風貌に対する違和感が氷解し「こういう歴史的背景を使ったギミックの作品か!」となったわけですね。そうでなくとも、そういうところをしっかり詰めてくる作品なんだという印象がここで固まりました。

それで困ったのが5章以降。ジゼルの登場から結構空気が変わりますよね。
ここ以降、中世ヨーロッパを舞台に「アレルギー」「衛生」「トラウマ」とかいう現代語が飛び交いながらラブでコメな軽妙会話劇がシリアスの合間合間で繰り広げられるわけで、そういう軽さがキャラゲー的人気を誇ってるところにつながるのだと思います。しかしですね、前述の設定に関する印象に、「認識は覆されるもの」というこの作品の根幹、そして4章の仕掛けのことを踏まえれば、ここもまた創作――現代人の手が加わらなければこのような会話はありえない、認識はまたも覆されるのだろう……と台鼎が考えるのも無理からぬわけです(某作の信者ですし)。……いや、はい、ミスリードしてごめんなさい。
そうなると何が問題かというと、一歩引いた目で見てしまうんですよね。バッドエンドの存在や演出の妙、伏線の巧みさも大いに手伝って、ずっともうメタ的な目で見ていました。「ああ、上手くできてるな」と。そうすると、シリアス部分での会話の流れ、たとえばキャラクターが事情心情を言葉にして説明するような部分も、上手くない部分、説明臭い説教臭いなどという悪いところとして目につきます。そんな感じに、彼ら彼女らに思いを馳せることこそが重要であったのに、そっちのけで疑心暗鬼やってました。最後の扉が開いたところでやらかしていたことに気付きますが、正直手遅れであり……。
そうして僕は、この物語を「他人の不幸」のまま見届けることになってしまった。

そして、もう二つの不運。
一つは、音楽が好きになれなかったこと。力が入ってるのは分かるのですが、少なくとも自分の耳には心地よくなかった。「そこでなぜその音が入ってくる…?」とアレンジなのか何なのかに疑問を感じてしまうことが多々。意図的な部分もあるのだとは思いますが、このことによって没入感が削がれてしまったのも事実。
もう一つは、個人的に「転生モノ」が苦手であったこと。どんな創作においても「この作品ではそういうものなんだよ」という了解はあるもので、それはできるだけ尊重したいと思うのですが、それができないものの一つが「転生」。転生モノって、出発点以外における、ある人物の「その時代での」身体性や因果が無視されがちじゃないですか。それの何がいけないのかと訊かれると返答に窮するのですが、とかく、それが僕の(本来の意味での)世界観です。特にこの作品の場合、ミシェルのエピソードに代表されるように、身体性とか因果――たとえば生まれたときの時代や事情がとても重要な要素なわけで。そうすると、たとえば、ミシェルが別の時代に男性として生まれ変わることができたとして、二人の兄のいない家庭で育ったとして、「魂」がそうだからといって彼は彼と呼べるのか、とかそういうことを思ってしまうわけです。この作品ではそういう展開にはなりませんでしたが、しかしそういった類の懐疑をやはり抱いてしまって居心地の悪さをぬぐえない。あるいは、業のようなものを考えるのならば、たとえばミシェルの最初の悲運はミシェルの前世の行ないによって根拠づけられなければならないのではないか、とも。
あと加えて言うなら、悲劇を重ねていくタイプの話がそもそも苦手であったり……。



そんなわけで、絶賛しておられる他のプレイヤーの方々に比して素直に楽しめなかったのが台鼎でした。個人的に、巧さとかなくていいから前半の感じでいってくれた方が好感を持てたかなあ。
違う意味で記憶を消してやり直したいけど、仮にできたところで結局同じ轍を踏みそう。650さんのレビューに先に目を通しておけばまだ心構えが出来ていたのかも……?



○なのかまち
クレナイブックの新作……なのかよくわからない新作(確か以前どこかに投稿されてた小説だったと思うんですが未読なのでよくわからない)。
クレナイブックのゲームの特徴というと、個人的にはSFっぽさ――と言っていいかわからないですが地に足のついてない非現実的でふわふわした感じと、性に対する視点だと思っているのですが(自分はそれらを合わせて童貞臭さと呼んでます)、collectは前者が若干強く、本作は後者が若干強い、という感じ。Glare好きな人がどうかはよく分からんですが、ほかのクレナイブックのノベルが好きなら気に入るんじゃないかなあと。
しかし、秋氏の作品は、ここまで個性がにじみ出てるのに一切押しつけがましくないのが不思議で魅力的ですね。
アヤカシガミマダー