はつゆきさくら



前注:
この文章は「『はつゆきさくら』クロスレビュー企画」に寄稿したものです。

(初出:2012年4月 紙媒体)




 美少女ゲームのなかには「雰囲気ゲー」と呼ばれる作品たちがある。物語の設定、あるいはグラフィックや音楽が醸し出す、作中の空気や匂いのようなものが優れた作品のことだ。たとえば、幻想的な雰囲気のファンタジーだとか、透明感とともに陰鬱な趣を持つ伝奇だとか、荒涼とした空気の終末モノだとか、はたまたノスタルジーをそそるような田舎モノだとか、そういった作品がそう呼ばれることが多い。ときには、作品の長所がそういった雰囲気しかないような場合の揶揄(つまり雰囲気「だけ」ゲーという意味)として、この呼称が用いられることもある。

 これらの作品に共通する事柄に、その物語の出来不出来に関わらず、作品の雰囲気がプレイヤーに対する物語への牽引力となっているということがある。美麗なグラフィックが、華麗な音楽が、心躍る設定の数々が、プレイヤーを作品世界に没入させるのだ。製作側の意図はさておき、少なくともプレイヤーから見れば、まず作品の世界観があって、その上で作品の物語があるのである。

 だからこそそのシナリオは、それらの雰囲気を逸脱するものであってはならない。雰囲気の構築を目指すなら、面白いからといってファンタジー世界で2chネタを連呼させてはダメであるし、田舎伝奇で脈絡もなくスーパーロボットを登場させてはいけない。興醒めだからだ。逆に言うと、シナリオが雰囲気を破壊しているような作品が最終的に「雰囲気が良い」と評されることは稀なのである。作品の雰囲気を否定しないためには、たとえその物語のテーマが「作品世界からの脱却」などであったとしても、その展開のプロセスはすべからく作品の雰囲気に則ったものであるべきなのだ。

 その制約はときに、展開の描写そのものに影響を与えうる。シナリオ上で文章として描かれること――たとえば「なにが起こったか」「なぜこうなったか」という説明が作品の雰囲気や流れを損なうおそれのあるとき、そういった描写が省かれるのである。仮に、ファンタジー作品で「死んだはずのヒロインが最後に生き返る感動的な展開」があったとして、そこに対して説明を求めるのは野暮というものだ。その感動に水を差すような真似である。それでも看過できず理由を求めるなら、作品の中から、プレイヤー自身が考察をしなければならないのだ。雰囲気ゲーと呼ばれる作品のうちシナリオが良いとも評されるものには、しばしばこういう要求をするものがあって、同時に「シナリオが難解」「考察ゲー」という評判がつくことも少なくない(ある意味ではその難解さをもって「雰囲気」だと言うこともできる)。この文脈における「難解」という言葉は、作品自体に深遠なる真意が込められている……というよりは、読みとろうとしないと価値が生じえないという程度の意味であって、「考察ゲー」という言葉には「考えて察するゲーム」という意味が少なくとも含まれてはいるのである。

 当然のことながら、このような考察あるいは看過が、どんな作品に対しても、あるいはどんなプレイヤーであっても可能、などということはありえない。「人を選ぶ」のだ。看過できるのは作品の雰囲気に上手に溶け込むことのできるプレイヤー、考察できるのは作品の雰囲気に対して真剣に向き合えるプレイヤーしかいない。作品の雰囲気に対して親和性の高いプレイヤーだけが作品に選ばれ、作品を享受することができるのだ。



 何故にこのようなことを長々と述べてきたかといえば、この『はつゆきさくら』という作品がまさにこういった「雰囲気ゲー」の特徴を有している、と私自身が感じたからである。

 この作品における「雰囲気」とは、キャラクターたちが繰り広げる日常にほかならない。幻想的なグラフィックや流麗な音楽などの代わりに、進路指導委員や喫茶カンテラにおける主人公とヒロインたちとの交流が形成するやわらかい雰囲気が、プレイヤーをこの物語へ引きこむのだ。そしてその物語はもちろん、その雰囲気から逸脱するものにはなっていない。展開そのものは「復讐」というテーマが掲げられた一般的な恋愛ゲーを離れたものであるけれど、実際同様のテーマの作品で見られるような陰惨な展開はないし(ヒロインが主人公にレイプされたりNTRかまされたりなんてことはもちろんない)、可愛らしいヒロインたちの造形に似つかわしくない複雑な心理描写もなされることはないし、劇中に登場する非現実的なガジェットたちも割と常識的な範囲で活用される。その結果、テーマや展開に対する叙述がところどころ明確になっておらず、プレイヤーは自らその行間を察することを要求されるのだ。

 また一方で、同じくキャラクターを主とした作品をさす「キャラゲー」と呼ばれる作品たちとは、この作品は少し趣を異にしている。なぜなら、キャラクター(すなわちヒロイン)が描かれる対象として主眼となっておらず、あくまで物語への牽引役でしかなかったからだ。それぞれのヒロインでも誰でもない「主人公の」卒業というテーマが、各ヒロインのシナリオにおいてすら大きな部分を占めているという事実がいい例だ。逆に言うと、キャラゲーと呼ぶにはあまりに主人公のエピソードに尺を取りすぎており、ただヒロインを愛でていたいと望むには雑味が多いのである。

 だから、私が感じた限りにおいてこの『はつゆきさくら』という作品は、キャラゲーなどではなく「人を選ぶ雰囲気ゲーで考察ゲー」なのであった。



 ところで、この作品はどのようなプレイヤーによって享受されえるのだろうか。この作品に対して「考察」が出来るのは、どのようなプレイヤーなのか。それは、ボケボケとした言動を繰り返すヒロインたちとのゆるい交流に没入できる、彼女らの作り出す雰囲気に親和性のあるプレイヤーに違いない。そう、「グルルルシロ」「バニー」「まかのろん」などといった言葉を連呼し、半ばツッコミが不在のまま緩やかにボケちらす……そんな空間をあるがままに受け入れ、彼らの織りなす物語に感情移入することの出来るプレイヤーだ。

 こう書くと判ってしまうのは、昨今のアニメやラノベ、美少女ゲームなどといった作品に慣れ親しんだ者――すなわちオタクであれば、このハードルは簡単に乗り越えられてしまいそうなものである、ということだ。ただし、ここでオタクという言葉がさすのは、萌えという概念を軸にした、いわゆる「萌えオタ」のことだ。萌え的デフォルメがなされた空間や物語、あるいはそれらに通ずるライトな作風に対して違和感を持ちさえしなければ、『はつゆきさくら』は考察のしがいがあるものになるはずなのである。

 そう、この作品を正しく享受するには、ヒロインが頭のゆるい発言ばかり繰り返してくることに引っ掛かりを覚えてはいけないし、ヒロインが犯罪に走っても大して責められないことを不審がってはならない。ファンタジー世界に魔法があるように、伝奇作品に神様が出てくるように、それらは了解されてしかるべきものなのだからだ。そんなところにツッコミを入れるのは野暮というものである。そんな暇があるなら、彼ら彼女らのたどった物語そのものに思いを馳せなければならないのだ。

 そして同様に、伝奇設定やヒロインたちのキャラクター造形にどんな狙いがあったのだろうかなどと深く考え込んではいけない。ちょっとしたファンタジー設定が入っていたりキャラクターがテンプレ的だったりすることなど、既存の作品ではよくあることではないか。展開がぶつ切りな感じがしたところで、個別イベントを並べる構成はもはや美少女ゲームにおける伝統文化であって、他の作品に対して際立って悪い点というわけではないのだから、ことさら強調するものではないではないか。当然のように顔文字を用いるテキストだって、高尚な文学などではないのだから、効果的に用いられてさえいれば問題はないのではないか。そう、そのはずなのだ。

 それらを看過することが出来ず考察にも至れないプレイヤーは、『はつゆきさくら』の物語から隔絶され、置いてきぼりを食らう。この『はつゆきさくら』は、これを享受するプレイヤーが最近のライトな作風に慣れ親しんだオタクであることを想定――あるいは要求しているのだ。過去の作品たちで深刻であるかのように描かれたものを「しゃらくせえ」と一蹴し、ゲラゲラと笑い飛ばすことのできるプレイヤーを。

 『はつゆきさくら』は誰のための作品であったか。それは紛れもない、二〇一二年という今を生きる「萌えオタ」たちなのである。

(後略)







あとがき:
「プレイして文章書いてね☆」ということになったものの、実際やってみると「どないせいゆうねん……」ってくらい内容についてコメントに困った結果こんな感じに。全体的に「考察できなかった言い訳」です。こういうことやりだすとダメですね。今後やらないようにしたい……。
ほかの方々が割と好意的なレビューを書いていたのでいい案配――だったかどうかは不明。

追記:
最後の方が蛇足に過ぎる気がしたのでカットしました。