前注:
『猫撫ディストーション』発売前に行なった、「元長柾木クロスレビュー」という企画にユリイスが寄稿したものです。
ほかの方のレビューは、個別に作品語りをしたり、ライターとしての特徴を考えたりといった感じでしたが、ユリイスが書いたのは以下のような感じ。

『未来にキスを』の核心的ネタバレと、『フロレアール』『sense off』の軽微なネタバレを含みます。ご注意。



(初出:2010年12月 紙媒体)




 『未来にキスを-Kiss the Future-』という作品は、ヒロインである霞が生まれ変わるまでを描いた物語だ。
 物語冒頭では、蒙昧な霞はただ兄である主人公を愛し、わけもわからず「奴隷」として支配されることを望んだ。しかしその生活の中で、兄の全てを手に入れられないもどかしさと、その先にある別離の悲嘆と向き合うことになる。
 そして霞は気付かされるのだ。元より、自分の思いは自分の内側の世界にしか向けることができないということ。外の存在に縛られて、決して手の届かないもの全てを手に入れようとするから悲しいのだということ。そしてたとえそれが出来たとして、それは全てが一つになってしまうこと、自分以外の存在を失うことにほかならず、孤独を生み出す悲劇にしかならないということを。
 「自分の内側を見つめればいい」。「創世」を経てこの結論に至った霞は「兄をずっと好きでいる」ことを決意する。思いは何も変わっていない。けれど、霞は生まれ変わったのだ。自分の中に永遠にある、圧倒的な楽園に至る新しい人類へと。

 この物語を読み終えたとき、私は『フロレアール』から『sense off』、そしてこの『未来にキスを』へと至る旅路を思い返した。そしてこう思ったのだ。この霞の物語は、元長柾木が……そして私たち読者が辿った軌跡にほかならないのではないのかと。
 『フロレアール』では、フィクションの強制力の中で生きる主人公の葛藤が描かれた。その結末において主人公は、外からの強制力を受け入れることを決意する。しかしこのとき、彼は最終的にその強制力が何であるのかを知ることを最後まで知ることはない。そしてその後続作である『sense off』で元長は、外が存在しない世界を夢想した。肉体というハードウェアを脱ぎ捨てたその世界では永遠と全てが存在した。しかしこの楽園には、外部の存在を無視できない私たちでは至ることが出来ないのだ。この二作の流れは、霞が「奴隷」の名の下に兄と愛し合いその限界に喘ぐことになった、「創世」の幕開けに象徴されるようである。
 そして、霞は――そして私たちは、メタフィクションでもSFでもない世界観を持った『未来にキスを』の結末を見ることによって、外の存在をはっきりと認識しながらも楽園に至る術を知る。

「何だか……長いことかかって、最初に戻ってきちゃったね」
  ―― 飛鳥井霞(『未来にキスを』)

 そう、込められたメッセージは『フロレアール』で語られた、世界のあり方を受け入れることと何も変わらない。ただ、私たちのあり方が以前と違ったものになっただけなのだ。

 もちろんこの三作の流れの中で、元長自身が全く流動的な思索をしていたわけではない。『フロレアール』におけるフォルキシアの存在は「人々が理解しあうこと」への警鐘であるし、「自分にとって何が意味があるのか、何がそうでないのか、それを確認していくこと」という言葉は、『未来にキスを』の式子シナリオでの「混乱したままの定常状態」や、椎奈シナリオにおいて説かれた「檻(=無意識の社会的束縛)からの解放(≠脱却)」の原点だろう。
 また、『sense off』本編後にある慧子シナリオでは、『未来にキスを』で語られることになる、かつての世界が終わった後の存在「新人類」の形が文字通りラディカルに表現されている(その形は、ある意味で『sense off』本編へのアンチテーゼとも、ある意味で正統な発展系ともとることが出来るだろう)。そこで語られる「Sense Off(=感覚遮断)」とはまさに、「創世」で語られた、眼を閉じて内側に向かうことそのものである。
 こうした元長シナリオの根底にある思想の上に築き上げられたのが、『フロレアール』であり『sense off』であり、そしてそれらを総括した『未来にキスを』という作品だ。この物語を一つずつ読み解いていくことは、すなわち『フロレアール』から『未来にキスを』までの長き道のりを歩き続け、再び同じ場所へ帰ってきた彼の思想の旅――つまりシナリオライターとしての彼自身の物語を辿ることにほかならない。

 最後の「創世」を越えた霞と、三つの作品の最後にこの結論へと至った元長と、そしてそれを見届けた私たち読者と。この三者の物語がシンクロした先にあるのが、『未来にキスを』という作品の完結である。世界のあり方は何も変わらない。ただ、私たちが生まれ変わっただけだ。
 この結末を迎えたとき私たちは、眼を閉じて、互いに背を向け、静かに自分の内側を思うのだろう。そうして口付けた未来――いまだきたらぬもの――は、きっと希望に満ち溢れた味をしているに違いない。





※後注(という名の言い訳):
これを書いたのは『嬌烙の館』をやる一年前で、完全に『フロレアール』『sense off』『未来にキスを』を三部作的にまとめようとしております。
別にこの発想が間違いだったとは今でも思ってはいないのですが、この感想が『嬌烙の館』をやったときのアレな感想につながっているのは確かです。
逆に言うと、それほどにこの三作の流れが美しかったといえるのですが。いっそこれで終わってていいくらいに。

あと、元長信者のくせに『sense off』や『猫撫ディストーション』が(少なくともいまのところ)言うほど好きじゃないのもこんな感じの理由です。別に彼の語ることが特に好きだというわけではなくて、もっと、作品自体とは離れたところにあるというか。

実は信者などではないのかもしれない、とは薄々感じていたりも。